はじめに2016.6.14
宮沢賢治が童話集『注文の多い料理店』の序文に掲げている言葉が好きだ。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたものです。
賢治は物語作りについて言っているが、俳句作りにも似ているな、と思う。自分の発想や表現には限界があり、その枠内で作っていると、行き詰ってしまう。こんなふうに、風通しのよい外で作られた句を、読みたいものだ。また、作られた物語について、「わたくしには、そのみわけがよくつきません」と言っているのにも、深く頷かされる。作品の価値を判断するのは、作り手ではなくて、受け手であるというところも、俳句と同じだ。もっとも、作り手としては、受け手に面白がってもらいたい、あるいは受け手のためになるものであってほしいと願うものだ。
けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。
賢治はここで、物語を「たべもの」にたとえる。しかも、「すきとおったほんとうのたべもの」であってほしいと願う。きっと、俳句においても、こうしたものが名句と呼ばれるのだろう。まじりものがなくて、心にすっと染み渡っていくような句のことを。
ただ、物語と俳句で異なるのは、俳句には「食べ方」があるということ。物語は、だれに導かれなくても、味わうことができる。俳句は、そうはいかない。もちろん、すっと飲み込めるような俳句もあるが、たいていの俳句は、食べ方に迷うような、不思議な形をしていることが多い。ときには、本当に食べることができるのか、疑わしいようなものもある。
そんなとき、どうするのか。手っ取り早いのは、シェフに聞いてみることだが、それは野暮というものだろう。テーブルに仲間を呼んで、みんなであれこれ言いながら、食べ方をいろいろ試してみる。味について、議論してみる。これが、俳句の理想的な「食べ方」だろう。
現代の名句を読んでいくこの連載も、「会食」のひとつの形と思ってもらえれば幸いである。はじめるにあたって、ホストである私はとりあえず、テーブルのセットを終えている。すでに、卓上には、たくさんの皿が並んで、蓋を取られるのを待っている。堅苦しい上着や帽子は、脇に置いて、テーブルの向こう側に、座ってみてほしい。私の「食べ方」が、「すきとおったほんとうのたべもの」を、濁してしまわないことを祈りながら、ひとつずつ蓋を開けていきたい。