水原秋櫻子[1]2016.6.14

 

馬酔木咲く金堂の扉にわが触れぬ   秋櫻子『葛飾』

 秋櫻子初期の代表句として、揺るがない地位を獲得している一句だ。流麗な調べは、多くの人を虜にするのにじゅうぶんである。私もそのひとりであった。ただ、私は長く、この句の「わが触れぬ」という部分が、鼻につくと思っていた。人称がない場合の主語は作者自身のことになるという前提があるのだから、「わが」などと入れないで、「触れにけり」などと流してもよかったはずだ。なぜ、秋櫻子は「わが触れぬ」などと、あえて「われ」を押し出したのか。自己主張が、強すぎはしないだろうか。

 結論を出す前に、一句の言葉の働きを、精緻に見ていきたい。まずは、季語である「馬酔木の花」である。秋櫻子はのちに、自身の主宰する結社誌の名を「馬酔木」と付けている。秋櫻子にとって、特別な意味を持つ花であったようだ。

 「馬酔木の花」の含む意味合いについては、『万葉集』一〇巻に見られる、次の読み人知らずの歌が参考になる。

 河蝦かはづ鳴く吉野の川の滝たぎの上への馬酔木の花ぞ末はしに置くなゆめ

「馬酔木」の枝葉には、有毒生物が含まれている。したがって、馬が食らうと酔ったように苦しむことから、その名がつけられた。毒は、すなわち力でもある。古代人は、馬酔木の花に、霊力が宿っていると考えた。馬酔木の花は、繁栄を約束する吉兆であり、だからこそ「吉野の川の滝の上」という聖地に咲く。ゆめゆめ粗末に扱ってはならない、というのである。

 そこで、あらためて秋櫻子の句を見てみたい。「金堂の扉」とは、秋櫻子が好んで訪れた大和の秋篠寺のそれを指すと考えられる。「金堂」と表現するところに、すでにして美の演出がある。そこに「馬酔木の花」が配されるということは、「金堂の扉」とその向こうに広がる世界を、聖地と認定することにつながる。金堂の華麗さに、馬酔木の花の霊性が添えられることで、重厚な美の世界が現出する。馬酔木の花は、まさしく、「末に置くなゆめ」と言うべき季語なのである。

 ここで、さきほどの疑問に立ち返ってみたい。なぜ、「わが触れぬ」という強い自我を秋櫻子が押し出したのか。それは、荘厳された聖域としての「金堂の扉」に、拮抗するためであった。「触れにけり」などと流してしまっては、上五中七の光にあふれた世界観にのみこまれてしまう。「馬酔木咲く金堂の扉」という重厚な美的世界に対抗するためには、「わが触れぬ」という自我の押し出しが、どうしても必要だったのである。

 秋櫻子の句は、過剰なまでに美化された対象を扱ってはいるが、その対象に圧倒され、ひれ伏すような態度はとらない。その美に対抗するべく、自我を押し出してくる。対象の美と自我との緊張関係が、いっそう美を高めていく。秋櫻子の美は、躍動的な美である。そしてこの初期作品には、そんな美が、早くも拍動を開始していることがうかがえるのである。

 さらに、この躍動によって、一句における「われ」のありようも揺さぶられ、変容してくることに、注目したい。「馬酔木の花」の霊威を宿した「金堂の扉」の世界観の違和としてあることによって、「われ」もまた、この世界の住人の一人として生まれ変わる。単なる一個人の「水原秋櫻子」を越えた存在として、一句に屹立するのである。

 この句の「われ」が、ただ扉の前に立っているのでもなく、かといって扉を開けて入ってしまうのでもなく、扉に「触れて」いることは、重要である。美の輝きに一歩引いた態度を取るのでもなく、そこに積極的にかかわっていくのでもなく、あくまで自我を保ちながら、指先でかすかにつながろうとする。そこに生じる緊張感こそが、この句の何よりの魅力なのだ。

 いささか唐突な連想かもしれないが、私はこの句から、映画「2001年宇宙の旅」の冒頭、宇宙からやってきた謎の黒い石版に、原始人類がおそるおそる近づいて、そっと指先で触れるシーンを思い出す。未知のものに対して、人間がまず行ってみるのは、すぐに“武器”に変化しうる指先でもって、触れてみることなのだ。逆にいえば、触れるという緊張感をもって対することで、触れる対象は、その者にとってみずみずしく生まれ変わる。秋櫻子のこの句の場合、寺社の扉という、さして珍しいわけではないものも、「触れ」ることによって、あたかも未知のものであるかのような新鮮さを帯びてくる。「馬酔木の花」を添えるにふさわしい存在感を持つのである。

 美を主題にするということは、俳句においては、実は至難の業といっていい。美は、古今の芸術の普遍的な主題であるがゆえに、使い古され、磨耗される。俳句は、そうした陳腐な美を避けるために、あえて醜いものや、価値のないものを取り上げ、そこに美を認める方法をとってきた。しかし、秋櫻子の句において、醜いものや価値のないものが省みられることは、ほとんどない。すでに美しいと定められた自然や人工物に、秋櫻子俳句はごく素直なのである。蛇は嫌いだったから句に詠まなかったという話も、彼の性格を物語る逸話として以上に、作家性を物語るものとして興味深い。

 

 それでもなお、秋櫻子俳句が通り一遍の美をなぞるものに終わらないのは、対象の美と自我との緊張感が保たれているからにほかならない。美しいものを、いっそう美しくたたしめること。 それは、新しい美を見出すことに、けっして劣るものではない。

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