中村汀女2016.6.14

 

たんぽぽや日はいつまでも大空に   汀女

 

 「たんぽぽ」は、幼な子と親しい関係にある花だ。地べたに近く咲いているから、小さな子供にも触ることが簡単な上に、折れやすく、無尽蔵といっていいほどに数も多いため、玩具としてもちょうどよい。また、「たんぽぽ」という言葉の響きは、幼児のまだうまく機能しない口舌にも乗せやすく、特に「ぽぽ」の半濁音が、唇に快さを与えるようだ。幼稚園のクラス名でも「たんぽぽ組」は定番中の定番である。
 この句は、そんなたんぽぽの幼児性を、十二分に引き出している。たんぽぽの黄色くて丸い形と天に輝く太陽との相同を元にした着想が、いかにも単純で、子供でも思いつきそうだ。とはいえ、この句があくまで大人の文学であるという根拠は、「いつまでも」の一語にある。逆に言うなら、「いつまでも」がなかったとしたら、この句は無垢とか純粋といった評価を受けるにとどまり、名句とは称されなかったのではないか。
 太陽が永遠に空にのぼっていることなど、あるはずもない。それでもなお「いつまでも」と言うのは、疑うことを知らない幼児の稚気か、すべてを弁えている大人の空しい祈りか、どちらかだろう。おそらく、この句は、そのどちらも抱え込んでいるからこそ名句なのだ。

そのような解釈をすれば、この句の「たんぽぽ」と、それと相同する「日」とは、希望や平穏の寓意と見ることもできるだろう。もちろん、俳句を過度に寓意的に読むことは避けるべきだろうが、この句はやはり、ただの自然描写ではなく、作者の理想とする世界を示したものと読むほうが、深みも増すようだ。

 代表句の一つである「咳の子のなぞなぞあそびきりもなや」もそうであるが、汀女は永遠ということについて、特別の関心を抱いていたようだ。「咳の子」の句は、風邪を引いてもなお母に相手をしてほしくてなぞなぞ遊びを繰り返す子を、微笑ましく描きとった句であるが、そのような子供の時間が、永遠ではないことを、諦めとともに受け止めている心情が、「きりもなや」に潜んでいる。「きりもなし」とすれば、もっと客観的な描写になるのだろうが、「きりもなや」という詠歎の表現をあえて選び取っていることに、注目したい。この場合、ただ一夜限りの「きりのなさ」を嘆じているわけではなく、文字どおり、永遠に続くかのような「きりのなさ」に圧倒され、そのような幸福な時間が永続することを願いつつ、心のどころかでは、そんなはずはないと深く自覚している。その相克があってこその、「きりもなや」の詠歎なのである。

 「たんぽぽ」の句も「咳の子の」の句も、手放しの明るさの句というよりも、どこか陰影を含んでいる。それは、さきほど指摘した汀女という作家の複雑さに由来しているだろう。「いつまでも」「きりもなや」と言いながら、それがけっして永遠ではないことを知り尽くした者の、どこか醒めたまなざしが潜んでいるのだ。

 私は、汀女という作家の二面性を言いたいのではない。無垢な幼子の人格と達観した大人の人格とは、汀女という作家の中で、ジキルとハイドさながらに背反しているわけではなく、二つは分かちがたく融合して、汀女というひとつの作家の人格を作り上げている。汀女の俳句が、家族や身辺雑事といった題材の平凡さにもかかわらず、たしかな詩の言葉として屹立しているのは、そのような確固とした人格が前提になっているからだ。

 

外にも出よ触るるばかりに春の月

 

 月に手を伸ばす、あるいは月に触れるという発想そのものは、それほど珍しくはないだろう。古くは、小林一茶の「名月をとってくれろと泣く子かな」が、名に聞こえている。だが、この句においては、月を「とる」ではなく、月に「触るる」といっていることが肝要なのである。「とる」とすると、把握はより即物的になる。一茶の句の「とる」は、その即物性が「泣く子」をはぐくんでいる風土の野趣を伝えるのに効果的だ。一方、「触るる」とすると、把握は情緒的になり、艶美さを漂わせる。汀女の句の「触るる」は、その艶美さによって、「春の月」の朧がかった輪郭や、潤んだような色合いを、よく言いとっている。「触るるばかりに」、すなわち触れそうで触れないという、微妙な感覚を言いとめているのも、艶美さを助長している。

 「外にも出よ」という命令形の印象が強いが、「触るる」の一語の妙にも唸らされる。さらにいえば、「触るるばかり」という表現からどこか、「気が触るる」という、発狂をあらわす慣用語が見え隠れする。月のラテン語「ルナ」が、狂気という意味を持っていることも、見過ごしにはできない。この句を、春の月の美しさをみんなで共有したいがために、家の中の者に呼びかけた、という解釈は、メルヘンチックに過ぎる。そうした解釈は、汀女という作家を、「台所俳句の第一人者」というレッテルのうちに、封じ込めてしまうことになりはしないだろうか。「外にも出よ」と呼びかけているのは、優しい母親であることに疑いはないが、その表情には、ひとすじの狂気が走っているように感じられてならない。

 しばしば汀女の作風は、素直さや平明さといった言葉で評される。「外にも出よ」の句も、その典型例と目されることが多いが、だからといって、汀女の句が健康的で狂気の欠片もないというわけではない。むしろ、異常さや狂気があることが、自然な人間の表情といえるのではないだろうか。むしろ、いつも優しく微笑んでいる人間のほうが、どこか壊れているというべきだ。そういう意味で、確かに汀女は、句の中でごく素直に、つくろいのない自分を表現しているといっていい。

 

とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな

 

 人間がどのような振る舞いをして、何を考えようと、周囲の世界は、ほとんど無関係にそこにあり続ける。変わるのは、人間の見方だけだ。この句は、まずそうした醒めた認識が前提になっている。とどまったところで、蜻蛉は「ふゆる」はずもない。「とどまれば」という因果律を生起させる表現は、一般に理屈っぽさを免れないが、この句においてそうした印象が寸分もないのは、「とどまれば~ふゆる」という因果律が、そもそも成り立っていないからだ。そのように感じているのは、作者の主観にすぎない。だからこそ、まるで自分の行いに、世界が答えてくれたかのように感じた喜びは、はかりしれないのだ。世界に対する醒めた認識があるから、一瞬でもその法則が破れたといいう錯覚に、かえがたい価値がある。

 それを、何の意味もない錯覚だと切り捨ててしまうこともできるだろう。だが、私たちの生は、結局この錯覚の積み重ねにあるといってもいい。永遠に続いていく世界の中で、私たちの生は、結局のところ、無意味に等しいのかもしれない。しかし、世界と交感できたという錯覚が、生に意味を与えていく。つまり、それが積み重なれば、積み重なるほど、人の一生は意味深いものとなる。この句によって追体験される記憶は、その積み重ねの一つとなり得るのだ。

 悠揚とした一句の口ぶりがまたいい。「ふゆる」という語のふくらみと、ひらがな表記のやわらかさが、昆虫にしては大きい部類に属する蜻蛉の体躯を、よく再現している。「かな」止めにしたことも効果的だ。野原の中でとどまっている時間の長さが感じられ、世界と交感し合えた喜びの深さが示されている。

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