芝不器男12016.6.14

 

白藤や揺りやみしかばうすみどり   不器男

 

 折から靡いていた白藤が、ふっと風から解き放たれたとき、その白さに潜んでいた仄かな薄緑に気づいた、というのだ。山本健吉は「白い藤浪が風に揺れて一面の白が網膜に映る。揺れ止むと若葉の薄緑がはっきりしてくる」(『現代俳句』)と評しているが、この句の「うすみどり」は若葉のそれではなく、白藤という名の下に隠されてしまった、花の含む仄かな色彩を指していると見る方がよいのではないか。「薄緑」と漢字で表記されていたとしたら、それは明確な色彩であり、若葉の薄緑を指したものであろうが、この句は「うすみどり」と、ひらがなの表記を取っている。その場合には、もっと仄かな色彩を言っていると取れるからだ。風に揺れている間は、藤自体の若葉や、あるいは若葉萌え出る周囲の風景を含めて、白藤は揺れていた。風が止んだとたん、それらの緑の色彩が残像のように視界に残り、白藤の花に含まれたほのかな緑の色彩を表に引き出した。そして、ひらがな表記の「うすみどり」は、白藤の色彩についての写実であるとともに、作者自身の若さ、健やかさの表徴でもある。仮に、作者の不器男が若くして逝った俳人であることを知らなくても、この表現から作者の若やぎが感じられるのだ。

 この句は、白藤を純粋に写実したものとは言いがたい。「揺りやみしかば」という万葉風の言葉遣いをしているところもそうだ。輪郭をくっきりと描き出そうとすれば、「揺りやめば」とすれば足りるはずだが、あえて古めかしい「揺りやみしかば」という言葉遣いをしていることで、輪郭は朧化された。その朧化作用が、この句の場合には功を奏している。藤のなよやかな姿態を思わせるし、一句の情緒的な味わいを引き立てている。落ち着いた言葉運びだが、この句には不思議な陶酔感がある。白藤の秘密を暴いてみせたことの陶酔だ。「白藤」という名を持つものの、どこかに「うすみどり」を秘めているという発想は、高浜虚子の「白牡丹といふといへども紅ほのか」と通じる。虚子の句は大らかだ。不器男の句は、「し」の音の繰り返しも関わってくるだろうか、もっと鋭さ、あるいは熱っぽさがある。白藤の美しさへの賛嘆と、それを暴いた自分への賛嘆、その二つから来る高ぶりが、おさえきれないで言葉の隙間から漏れ出ている。不器男の句は端正さを誇っているが、その内に湛えた情感の豊かさは並ではない。一度その句の世界に同調することができれば、傾けられたミューズの水瓶さながらに、若い魂の感情がこんこんと溢れて尽きないのである。

 風に吹かれる藤は、たとえば『源氏物語』の「蓬生」で、源氏が花散里に会いに行く途次、藤の花の匂いがしたためにそこが末摘花の住む常陸宮だったと気づくくだりに現れる。「大きなる松に、藤の咲きかゝりて、月かげに靡きたる、風につきてさと匂ふがなつかしく、そこはかとなく薫りなりけり」。風になびいて匂いを散らすのが藤であった。確かに、藤の花は匂いが濃い花だ。しかし不器男の句では、匂いについては一切言葉の上に表さないで、あくまで映像として藤を捉えている。そもそも古典に登場するのは、紫雲になぞらえられるような紫の藤であった。白藤の美しさをこれほど高らかに謳いあげたのは不器男がはじめてであり、そして、最後かもしれない。そのように思わせるほどの名句である。

 

向日葵の蕋を見るとき海消えし  不器男

 

 向日葵畑の向こうに海が広がる景色を、はじめはなんとなく眺めていたのだろう。ふと向日葵の一輪に目を留め、その精緻な蕋の密集に目を奪われたとき、それまで背景にあったはずの海が、ぱっと視界から消え去ったかのような衝撃を受けたのだ。
 否定形は、詩歌において面白い働きをする。打ち消されることで、かえってその存在が際立ってくるのだ。この句の場合も「海消えし」と、海の存在を打ち消していることによって、かえって読者の意識には、海の青さが強く焼きつけられる。そのとき、何気なく聞こえていた波の音も、にわかに身に迫ってきたに違いない。消えたことによって、海の存在感が倍増し、それと映発する向日葵も、あたかも大きな黄色い海さながらに波立ちはじめるかのようだ。

 表現の上から言って、この句の命は「海消えし」の「し」にある。「消えぬ」では重みが出てしまい、はっと息を呑む瞬間の印象を言い表すのに適さない。この句はわざわざ「とき」という言葉を使って、瞬間の印象であることに拘っている。「し」の擦過音だからこそ、今まで省みなかった海が意識の上にのぼってきた、閃光のような一瞬を言いとめるのにふさわしいのだ。
 ちなみに「し」は、学校文法では過去や回想の意味を表す助動詞「き」の連体形ということになっているが、この場合には大野晋が『日本語の文法』で言うように「確述」の意味として取るべきであり、「海が確かに消えた」という、瞬間の印象を強調した表現といえる。

 向日葵の句が、海をいったん消すことによって、かえってより強く意識させたように、不器男の句は、認識の転換が一つの特徴になっている。たとえば「人入つて門のこりたる暮春かな」。人を入れたあとの「門」は、役目を果たしてまったくの背景と化してしまうはずだが、この句は役目を果たした「門」こそが主役としてその場を占めている。「門」というものの在り様を、一句の中で捉え直しているのだ。あるいは「麦車馬におくれて動き出づ」の場合、「麦車」とは本来「馬」を含めて「麦車」と見ているのであるが、その動き始めに着目することで、「馬」と「麦車」とが分離している状況を捉え、私たちの「麦車」に対する見方を変えてしまう。

 不器男の句は私たちがなじんでごく当たり前に「そのようなもの」と思い込んでいる対象について、一句の中で鮮やかに「実はそうではない」という認識の転換を迫る。その鋭い刃先は、常識に安住しようとする生活者の心を脅かすが、常識の彼方に真実を求めようとする詩人の心は喜ばせるのである。

 

あなたなる夜雨の葛のあなたかな   不器男

 

 俳句を読むとき、読者はまずそこに読解の拠り所、すなわち脳裏にイメージできるものを探すはずだ。この句における確かな物象は、「夜雨の葛」しかない。これだけが、見ることが出来るもの、感じ取ることができるものだ。だが、その唯一の拠り所は、けっして磐石とは言えない。むしろ曖昧で頼りないとすら言える。「葛」自体が、茫々と茂るものであるし、「夜雨」によってその存在感はいっそう曖昧になる。だが、この句の場合、はっきりしない「夜雨の葛」が、大きな効果を生んでいるのだ。

 「夜雨の葛」が、はっきりした存在感を持っていれば、そのイメージが一句の終着点となり、読者の心は、更なる「あなた」へと向かう作者の心に、同期することはできない。「夜雨の葛」は、茫漠としているがゆえに、あくまで終着点ではなく通過点とみなされ、読者の心を、次の「あなた」へと運ぶのである。そのとき、はじめて読者は、作者と心の動きを一にする。一句の締めである「かな」に行き着くまで、読者にとって突っかかりとなるような存在感のある物象は、必要ないのである。「夜雨の葛」の物象としての儚さ、頼りなさは、そういう意味でこの句にとって不可欠なのだ。

 「夜雨の葛」の儚さ、そして「あなた」の畳みかけは、この句を切ないものにしている。「かな」で止めてはいるものの、「夜雨の葛」の向こうに果たして求めていたものを見出し得るのか、悲観したくなるほどだ。しかし、この句を嘆きに終わらせなかったのは、下五の「あなた」に「貴女」の意味も見え隠れするからだ。不器男の推敲案が残されているが、それによれば「かなた」とする案もあったようだ。それを「あなた」と最終的と定めたことで、この句は一抹の救いを得た。はるか「あなた」の先には「貴女」が待っていることが、暗に示されている。

 この句には「二十五日仙台につく みちはるかなる伊予の我が家をおもへば」という前書が付されている。それを踏まえれば、「貴女」とは郷里で待つ母のことと考えられる。山本健吉は「何か故郷の老母を偲ぶ感情がこもっているようである」と言う。あるいは谷さやん氏は、不器男が母と同じほどに慕っていたという兄嫁の梅子の面影があるのではないかと推測する(『芝不器男への旅』創風社出版)。この句の初出が、梅子への手紙であることを思えば、それも納得が行く。

 しかし、そうした不器男個人の事情を離れてみれば、恋愛句と取ってもよいのではないか。「葛」は風にあおられると裏が白いことから「裏見」と称され、和歌では「恨み」に掛けられた。不器男の句はあくまで「夜雨の葛」であり、その恨みの思いは静かな雨が鎮め、心は軽やかにまっすぐ、遥かな「あなた」の人の元に飛んでいくのである。

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