日野草城2016.6.14

 

春暁や人こそ知らね木々の雨    草城『花氷』

 

 山本健吉は『現代俳句』の中で、草城の初期作品について不満を述べている。ここに掲げた「春暁」の句や、「春の夜や檸檬にふるる鼻のさき」「おぼろ夜や浮名立ちたる刺青師」などの句を挙げて、与謝蕪村の耽美調と比較しつつ、「小技巧の粉飾」「こういう句はもともと実感や写生を基調とするものではなく、思いつきのフィクションにすぎないことが多いのである」と批判する。当時の俳壇に物議をかもした「ミヤコホテル」の連作についても「新婚の初夜はかくもあろうかという想像句であって、特殊な体験に基づいたものではなく、全く概念的な発想である」と切って捨てている。いまや草城の代名詞ともなっている「ミヤコホテル」の連作は、当時は新鮮な趣もあったのだろうが、現代からみると、新婚初夜のイメージを、テクニックによって糊塗しただけの作品に見えてしまうのは確かだ。

 しかし、作品に嘘くささがあるのは、作者の体験や実感に裏付けられていないことに因るのではない。山本が称揚する蕪村の耽美調の句を生んだのも、豊穣な想像力にほかならない。作品の表現がじゅうぶんではないことを責めるべきなのだ。山本健吉が否定した草城の初期作品の中には、見過ごしには出来ない魅力をたたえているものもある。たとえばこの「春暁」の句、木々をしずかに包んでいるけぶるような雨、それを知っているのは自分だけだという、慎ましい幸福感が好もしい。ガラス窓越しに見ている光景だろうが、木々と心を重ね、こまかい雨を作者自身も浴びているような趣がある。「人こそ知らね」という大上段にかまえた文語体が、演劇性を醸し出していて、そう思わせるのだろうか。同時期の「春の夜のわれをよろこび歩きけり」と同趣の句であるが、こちらの句のほうが「樹々の雨」の具象性がある分、作者の陶酔感に同調しやすい。

 「春暁」の句をはじめとして、草城の句の感覚の鋭さは、すでに多くの評者の指摘するところだ。とりわけ、触覚にすぐれていることは、草城の句の大きな特色になっている。

 

春の夜や檸檬にふるる鼻のさき     『花氷』

遠野火や寂しき友と手をつなぐ

ものの種にぎればいのちひしめける

朝すずや肌すべらして脱ぐ寝間着

くちびるに触れてつぶらやさくらんぼ

水晶の念珠つめたき大暑かな      『青芝』

湯あがりの肌のたのしき薄暑かな    『昨日の花』

冬の蠅しづかなりわが膚を踏み     『旦暮』

夏布団ふわりとかかる骨の上      『人生の午後』

 

 草城の句の中から、触覚の働きがみとめられる句を抜き出していくと、きりがない。特に青春期には、みずから積極的に対象に触れている。友や女との関係を結び、強めるために、触れるという行為がある。病を得てからは、「冬の蠅」や「夏布団」といったかすかなものにすらも鋭敏な触覚が反応してしまい、困惑しているさまが読み取れる。もてあましてしまうほどに過敏な触覚を、草城は持ち続けていた。「手袋をぬぐ手ながむる逢瀬かな」(『青芝』)「春の夜や自動小銃を愛す夫人の手」(『昨日の花』)「をさなごのひとさしゆびにかかる虹」(『同』)など、身体の部位の中でもとりわけ「手」への注視が顕著であるのも、この鋭敏な感覚に由来する傾向だろう。

 これらの句の中でも「ものの種」の一句は、よく知られている。見えもしないし、触れることもかなわないはずの「いのち」というものを、握るという行為を通して、触覚の面から捉えてみせた、稀有な句といっていい。触覚はもっとも原初的な感覚であり、地球上にあらわれたはじめての生き物も、アメーバ状の不定形で目も鼻もなかったはずだが、触覚だけは存在し、その一つの感覚によって外界を認知していたという。「ものの種」に秘められた、純粋な生命の息吹を感じ取るために、触覚を動員したことは、ごく自然なことなのだ。

 草城といえば、女性を対象にした句で知られている。妻との初夜を主題にした物語的連作「ミヤコホテル」をはじめ、「春の灯や女は持たぬのどぼとけ」(『花氷』)「ぼうたんや眠たき妻の横坐り」(同)「わぎもこの肌のつめたき土用かな」(『青芝』)「誰が妻とならむとすらむ春着の子」(『銀』)など、枚挙にいとまがない。しかし、どの句も懶惰や淫猥とは程遠い。すがすがしいほどに直情的で迷いのない女体崇拝だ。これらの句にあらわれてくる女性に個性は感じられない。女性ではなく女体そのものに関心が向けられており、その根には「触れたい」というアメーバ的な欲求がある。

 これまで、草城の触覚の句について述べてきたが、興味深いのは、ただ触れるというのではなく、見ることと触ることが絡み合っているような、奇妙な感覚の世界が開かれていることだ。

 

妻が持つ薊の棘を手に感ず    『人生の午後』

 

 視覚と触覚が混然一体となった感覚、というべきだろうか。自分の手に薊の棘が触れているわけではない。しかし、妻のなよやかな手に携えられた薊を見ると、まるで自分の手が薊の棘に冒されているように感じられる、というのである。見ることと触れることを、同時に果たしてしまっているこの句は、草城の感覚の特異さを、端的に示している。草城の触角は、共感覚的に視覚や聴覚とも結びつき、私たちが日常的に認知している世界の姿を、少しだけ捻じ曲げてみせるのだ。

 

秋の夜や紅茶をくぐる銀の匙   『花氷』

 

 通常の作者であれば、「紅茶くぐらす銀の匙」とするところではないだろうか。あえて主体を「銀の匙」に置き換えているわけだが、そのことで、あたかも作者自身も(ひいては読者も)「銀の匙」となって、なめらかな紅茶の中を泳いでいるかのような錯覚を起こさせる。

 

高熱の鶴青空に漂へり      『人生の午後』

 

 この句も、青空を飛ぶ鶴という目で捉えたもの(この場合は幻視であろうが)に、熱病を負った作者の意識が入り込んでいる構造だ。「高熱の鶴」という異様な措辞は、その構造なしには成立しえないだろう。その鶴が感じている青空の冷たさ、心地よさを、地上で病に伏せている作者自身も感じ取り、慰めとしているのだ。

 大空を飛ぶ鶴の感じていることまでも、自分のこととして感じとってしまう草城。その句は、意味や論理を超えた奇怪かつ愉快なヴィジョンを私たちに見せてくれる。

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