星野立子2016.6.14
大仏の冬日は山に移りけり 『立子句集』
「大仏の冬日」という措辞が大胆である。大仏の上に掛かる冬日のことを指しているわけだが、「大仏に掛かる冬日」とか「大仏の上の冬日」などとしてしまっては間延びする。さりげなく書かれているが、「大仏の冬日」と簡潔に表現することは、たやすいことではない。
続く「山に移りけり」の展開にも目を瞠る。冬日を主語に据え、場所と時間の変化を示している。俳句は瞬間を切り取るものという定義は、入門書などでお題目的に繰り返されることであるが、理の無いことではなく、確かに時間の経過を一句に詠み込もうとすると、一句が説明的になり、失敗しやすい。ところが、この立子の句のような例外があるから、安易な決めつけは良くないと、反省させられる。時間の流れを詠み込みながらも、この句に停滞感は欠片もない。「大仏」から「冬日」へ、そして「山」に移っていくイメージの推移に無理がないからだ。「大仏」と「冬日」と「山」、この三つは、互いに溶け合うように、鮮やかな調和を遂げている。「大仏」は「冬日」のようにあたたかく、大きな存在として感じられてくる。あるいは「冬日」は、「大仏」のように安らぎを与えてくれる存在に見えてくる。
助詞の使い方にも隙がない。単調にならないよう、「の」「は」「に」とすべて異なる助詞を使ったなめらかな調べは、冬日が渡っていく静かさをよく再現している。
「大仏」と「山」とくれば、当然舞台は鎌倉であると推測できる。事実、立子は幼少期、そして結婚後も多くの歳月を鎌倉で送っている。とはいえこの句は鎌倉であることを超えた、普遍的な広がりを獲得している。仏とともにある暮らしの平穏を、この句ほどに語っている作はほかにないだろう。
いつの間にがらりと涼しチョコレート 『立子句集』
「いつの間にがらりと涼し」の感慨を裏付けるために、下五に何を持ってくるか。作者の力量が試されるところだ。「チョコレート」は、おそらく作者立子にとってはごく自然な選択だったのだろうが、ほかのあらゆる選択をはねのけるような、最上の解といっていい。夏の暑い最中には、チョコレートはべたつくし、その甘さはけっして歓迎されるものではないが、ふいに涼しさを覚えるようになってきた夏の終わりごろには、チョコレートの甘みと香りとが、喜ばしい美味に変わるのだ。何の修飾語もなく、ただ「チョコレート」という名詞をむきだしで下五に置いた潔さが、秋へ向かう心の張りをよく感じさせている。
桃食うて煙草を喫うて一人旅 『人生の午後』
芭蕉に代表されるように、旅は芭蕉以来、俳句の重要な主題となっているが、この句にはそうした気負いがまったくない。「桃」も「煙草」も日常身辺にあるものだが、「一人旅」の中ではまた格別の味わいになる。「桃」の柔らかさと甘さに対して、「煙草」に少しの意外性があるのも良い。古き時代のモダン・ガール風でありながら、現代女性の旅のスナップと見ても、不自然はないだろう。
立子の俳句の特徴の一つである音楽性を、この句はよく体現している。歌の歌詞のようだという意味ではなくて、一句の調べが心地よいのである。「食うて」と「喫うて」と連ねた軽やかなテンポが「一人旅」というひとかたまりの語で落ち着く。緩急のバランス感覚にすぐれているのだ。だからだろうか、この句の主人公は、桃を食べて煙草を吸って、その合間に鼻歌も歌っているようにも想像してしまう。
「つんつんと遠ざかりけりみちをしへ」(『立子句集』)や「重き雨どうゝゝ降れり夏柳」(『続立子句集 第二』)などのオノマトペ、「秋灯を明うせよ秋灯を明うせよ」(『實生』)や「流星を見し刻忘れ場所忘れ」(『笹目』)に見られるリフレインも、立子俳句の音楽性をよく示している。基本的に立子俳句は、対象(主に季語)への賛歌なのだ。
障子しめて四方の紅葉を感じをり 『實生』
障子ごしに見える影のほのかな赤さに、紅葉の盛りを感じ取っている。じかに見ていたときよりも、見えなくなったときの方が、より紅葉の気配を濃厚に感じ取ることができるのだ。「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」(『徒然草』第百三十七段)という伝統的な美意識を、「紅葉」にあてはめたものだろうが、「紅葉」を「感じる」という表現は、古典には見られない自我の意識が濃く出ている。立子俳句は、その中心に必ず作者がある。調和した世界といっても、箱庭のように作り物めいたところがないのは、それゆえだ。
美しき緑走れり夏料理 『笹目』
夏料理に旬の野菜などの「緑」を認めるまでは凡手にもできるだろうが、本来は静的に配置されているはずのそれら「緑」を、動的に「走れり」と表現した点には驚かされる。とはいえ「緑走れり」だけでは「夏料理」の描写として強引だろう。そこで「美しき」という形容を加えたことの効果が出てくる。この形容によって、「夏料理」らしい、よく整えられた膳の様が浮かんでくる。
虚子のもとに育った立子の句は、この句のように季語のことを一元的に詠むいわゆる「一物仕立て」の句が圧倒的に多い。しかし、数は少ないものの、立子は取り合わせの句も巧みだ。
口ごたへすまじと思ふ木瓜の花 『立子句集』
考へても疲るゝばかり曼珠沙華
午後からは頭が悪く芥子の花 『続立子句集 第二』
冬ばらや父に愛され子に愛され 『春雷』
自身の情感と、それに見合う花とを取り合わせた句である。それぞれの花の持つイメージや情感が、内面の表現に生かされている。一句目の場合には、「口ごたへすまじ」と慎み深く振舞いながらも、やはり胸中に屈しきれない思いを抱える人物像に、小ぶりながらもはっきりした赤さの「木瓜の花」が適っている。二句目は、あぜ道の「曼珠沙華」の乱立は、思考に倦んだ心を余計に疲れさせるだろうと納得がいく。三句目は、昼過ぎのぼんやりとした頭は、茎の細さに似合わず大輪の花が咲く「芥子の花」と、よく似ていることに気づかされる。四句目は、さかりの薔薇ではなく冬に咲く薔薇であるところが、まわりの愛に感謝しつつもどこかしら寂しみも覚えていることを物語っている。
これらの「取り合わせ」は、意外な言葉同士の衝撃によって、現実を超えた詩的世界を一句の上に創出する、といった類のものではない。立子俳句が志向しているのは、調和した世界観である。言葉同士の衝撃や、常識の転換などは、立子俳句に期待することはできない。むしろ、そうしたものを排するところに、立子の作家性が確立しているといえそうだ。
山本健吉は、立子という作家の特質について、次のように評している。
彼女の句は、明るく、淡々として、軽く、また、のびのびとしていて、屈託がなく、素直な情感が盛られているのだが、その反面に、やはりあまりに他愛なくて物足りないという不満は、どうしようもないのだ。(『現代俳句』)
確かに、立子俳句には、人生の暗い面はほとんど感じられない。愛や生死といった文学的主題の掘り下げにも関心は払われていない。良く言えば純粋無垢ということになるだろうが、否定的に言えば幼稚であるともいえる。もっとも、たえず拡散し流動し、混迷の度合いを深めていく世界において、その流れに逆らって、調和した世界を作り出す方が、実は困難な営為といえるのではないだろうか。
しんしんと寒さがたのし歩みゆく 『立子句集』
身にしみわたっていく寒さをも、楽しんでしまおうというこの句は、天真爛漫ともいえるが、あるしたたかさも感じられる。逃れられない寒さに対して、愚痴を言いつつ耐える人もあれば、あえて楽しんでしまおうという人もある。人生の艱難辛苦への態度も同じだろう。呪いの言葉を吐いて気を晴らす人もあれば、たとえたとえ能天気と言われようとも寿ぎの言葉で自分を鼓舞しようとする人がいる。星野立子は後者なのだ。世の混迷に対して、立子はあえて調和を重んじることで対しようとしたのかもしれない。そう思えばこの「歩みゆく」の向うには、一人の成熟した女性の凛とした横顔が見えてくる。