三橋鷹女2016.6.15

 

 前回取り上げた星野立子と、三橋鷹女の句はある意味で対照的といえる。立子が温雅、平明と評されるのに対して、鷹女は激烈、特に富澤赤黄男の影響下に編まれた『羊歯地獄』については難解と評されることが多い。昭和期に活躍した立子、鷹女、汀女、多佳子ら女流俳人を、それぞれの頭文字を取って4Tと呼ぶが、鷹女の立ち位置はその中でも特異と言っていい。ちなみに、山本健吉の『現代俳句』では、赤黄男も鷹女も立項されていない。

 鷹女にも、夫や子への愛情を詠いこんだ、温雅な作風の句も散見される。たとえば「子に母にましろき花の夏来る」(『白骨』)などは、母の無償の愛を感じさせ、ピエタ像も想起させる、名句だと思う。だが、やはり何と言っても鷹女の句で取り上げられるのは、激越な調子で自我を押し出した句である。

 平成期の俳句の特色に、自我の表出には消極的である、ということが挙げられる。4Tの中では、星野立子に共感する作家が多いということだろう。そのような時代において、三橋鷹女の強烈な作風が、敬遠されがちになっているとすれば、これは不幸なことだ。身のまわりの何気ない自然や、平穏な人生の記憶は、もちろん庶民の文芸としての俳句の大切な題材であるが、鷹女のように日常性を越えた詩的世界を十七音によって構築する試みも、放擲してはならないだろう。現代俳句の可能性を広げ、豊かにしてくれた鷹女俳句に、平成に生きる私たちはもっと畏敬の念を抱くべきだ。
 私がもっとも好きな鷹女の一句は、次の句である。

 

ひるがほに電流かよひゐはせぬか  『向日葵』

 

 昼顔は蔓性の植物である。蔓はまるで電線のようでもある。花は、蔓の途上に咲く。電線のような蔓に咲く花には、電流が流れ込んでもおかしくない、というのである。
 もちろん、現実的に考えれば、そんなことはあるはずはない。そもそも、昼顔の蔓が電線に見えるというのは、一種の奇想であり、独善的とすら言える。それでも、読者はこの着想を受け入れてしまう。読者を説得するやり方ではない。言うなれば、力技である。「ゐはせぬか」の語気によって、読者を力づくで納得させているのだ。
 「ゐはせぬか」と呼びかけている相手は、昼顔であり、自分自身である。対詠的に答えを求めているようでありながら、自分の中ではすでに確信があるのだ。電流は流れているだろうか、いや、流れていないはずはない。そしてもし、電流の流れていないような、つまらない花だとしたら、枯れてしまえ、と命じるような覇気すら感じられる。口語では、けっして出せない力強さだ。
 つい、「ひるがほ」と「電流」を結び付けた発想の奇抜さに目を奪われるが、この句の主眼は「ゐはせぬか」によって表出される、主体の強烈な意識である。触れた者に激しいショックを与える「電流」が、自我の強さをよく感じさせる。
 自我の強さといっても、作者である鷹女そのものの自我ではない。次の句には、等身大の自分を拒むという、鷹女ならではのメッセージが色濃く出ている。

 

この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉   『魚の鰭』

 

 能の演目「紅葉狩」には、美女に化けた鬼が登場する。能では、はじめ女の姿で現れた鬼が、やがて本性をあらわすが、ここでは女が鬼に変化する。一介の女であるよりも、鬼女の方を選びたいというメッセージが、ここに示されている。「夕紅葉」の妖しい美しさからすれば、鬼女への恐れよりも、憧れの念の方を強く感じとることができる。
 紅葉と言えば、次の句も忘れがたい。

 

薄紅葉恋人ならば烏帽子で来  『魚の鰭』

 

 ありふれた恋人など要らない、自分にふさわしいのは、貴人風の「烏帽子」の恋人の他にありえない、と言うのである。「紅葉」は鷹女に、われならぬ身へ、そしてこの世ならぬ場所への憧れを掻き立てるのだろうか。
 鷹女の句には、静よりも動を、日常よりも非日常を、そして平穏よりも狂気を、というモチーフが散見される。「蝶とべり飛べよとおもふ掌の菫」(『向日葵』)が鷹女の処女作であったというのは、重い意味を持つだろう。可憐な「菫」として自分の手にあるよりも、あの「蝶」のように乱舞せよという指令は、自分自身へも向けられているのだ。「菫」よりも「蝶」であれ、貞淑であるよりも、奔放であれと、自らを鼓舞している。鷹女はこれを出発点にして、平凡な自己のあり方から自らを解放しようと、苦闘し続けるのである。
 「ひるがほ」の句にもまた、同じモチーフを認めることができる。「ひるがほ」はうす桃色の優しげな花だが、それでは鷹女は満足しない。そこで、「電流」を流して見せたのである。文字どおり、電気ショックによって、「ひるがほ」を蘇生させようとした。つまり、「ひるがほ」が「ひるがほ」であることの限界を超えさせようとしたのである。そしてそれは、句の対象物にとどまる話ではない。自分自身が「三橋鷹女」であることから、解放されたいと希求する心の表れなのである。
 第一句集『向日葵』には境涯性が目立つが、第二句集『白骨』以降、次第に別の何ものかへと変貌しようとする志向が目立つようになる。

 

老いながら椿となつて踊りけり     『白骨』

枯蔦となり一木を捕縛せり       『羊歯地獄』

ひまはりかわれかひまはりかわれか灼く 同

老鴬や泪たまれば啼きにけり      『ぶな』

 

 花をみずからに仮託する手法は詩歌においてよく取られるが、一句目や三句目には、花自体へと変容する過程が示されている点が目を引く。二句目や四句目は、「枯蔦」「老鶯」それ自体を描いているようでありながら、やはりそれは鷹女が変化した姿と見るべきだろう。
鷹女俳句に、勝気だったという鷹女自身の気質が反映していることは、しばしば指摘されることだ。確かに「夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり」(『向日葵』)や「初嵐して人の機嫌はとれませぬ」(同)といった句には、作者鷹女の本心を、俳句を通して発露したように見える。また、「日本のわれはをみなや明治節」(『向日葵』)「詩に痩せて二月渚をゆくはわたし」(同)などのように、一句の中に「われ」「わたし」が入ってくる場合も多い。ここで言う「われ」「わたし」を、鷹女自身を指しているとみることもできるだろう。しかし、こうした強い感情や自意識が、あえて俳句と言う小さな形式を通して表現されていることの意味を考えてみたい。鷹女俳句では、俳句形式が一種の“舞台”として機能しているのではないだろうか。一本の紅葉の木を登ることで鬼女に変化するように、鷹女は俳句によって自らを“舞台”上の“主人公”として生まれ変わらせた。鷹女俳句は一つの情熱的な“演劇”なのである。

 

みんな夢雪割草が咲いたのね  『向日葵』

 

 一句の言葉自体が、芝居の中の台詞の様だ。「みんな夢」と呟きのように中途半端に終わってしまう感じ、そして「雪割草」の字面の儚さと、「~のね」という柔らかい語り口ゆえに、この句の主体は奇妙に肉感がない。あらゆる時代、あらゆる場所に遍在する、女の普遍的な哀しみを、この句は訴えているようだ。

 

白露や死んでゆく日も帯締めて  『白骨』

 

 ここに描かれているのは、理想の死にざまだろう。ただの「露」ではなく、「白露」という美称を用いていることからも、それは言える。実際には、このように死ねる人は、多くはないはずだが、このような完璧な死にざまを描くことができたのは、鷹女があくまで“舞台”の上の人物だからだ。

 

鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし   『白骨』

 

 さきほどの句が理想の死なら、こちらは理想の恋愛である。「鞦韆は漕ぐべし」と「愛は奪ふべし」とがさりげなく並べられているが、「愛を奪ふ」という行為は、ぶらんこを漕ぐように簡単にはいかないはずだ。多くの人が傷付き、自分もただではすまない。だからこそ、ラブ・ロマンスを私たちは必要とする。この句も、愛にまっすぐな一句の“主人公”に、読者は惹きつけられるのだ。

 

堕ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み  『羊歯地獄』

 

 夕焼けに真向かう程度であれば驚かないが、女性らしからぬ「股挟み」には迫力がある。「炎ゆる夕日」にも引けを取らない、女の情熱が漲っている。とはいえ、「墜ちてゆく」は、女の衰退も暗示しているから、老いてゆく者の胸中に滾る、儚い情熱と映る。

 

白馬を売らんと来しが葦の花   『ぶな』

 

 「白馬」を売るとは、ほとんどの人が経験しないことだろう。売りに行く白馬とともに、川辺を歩いている。高貴なる白馬を手放すことに、まだ迷いがあるのだろう。なぜ白馬を売らなくてはならないのか、背景はまったく書かれていないが、静かな悲しみが伝わってくる。

 鷹女は、俳句という“舞台”にのぼることで、女の普遍的な姿や、理想の姿を俳句の上に作り出してみせた。それは、あくまで一句の主体は自分自身であるという前提を固持した俳句では実現し得ない、画期的な方法だったと言える。しかし、どのような俳優でも、舞台から降りるときは来る。次の句の湛える悲しみは、現役を退いた老俳優の悲しみである。

 

藤垂れてこの世のものの老婆佇つ   『ぶな』以後

 

 「藤垂れて」と、あえて藤の花が「垂れて」いることを示して、その重く垂れ下がったさまを強調することで、「老婆」の悲しみが際立ってくる。

 鷹女が仮に、“舞台”の上で完全に自由な“主人公”であったならば、晩年の鷹女俳句に、「老」のモチーフはこれほど多くなかったに違いない。その点で、「この世のものの」という限定を受けた「老婆」は、どこへも行けなくなった……“舞台”に立つことのできなくなった鷹女自身であるのだ。果たして、俳句の上に、完全に自由な“主人公”を立たせることは、できるのか。鷹女作品は、大きな課題を私たちに残している。

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