原 石鼎2016.6.15
頂上や殊に野菊の吹かれ居り 大正元年作
この句の「や」の切字の新しさについては、すでに先行する見解が多く在る。一例として、山本健吉の『現代俳句』から引用しよう。山本は「その大胆な措辞が俳諧者流を驚かすに足りたであろう」と、上五の「頂上や」の打ち出しの当時における新しさを指摘して、次のように述べる。
初五のや留は、「春雨や」「秋雨や」のような季語を置いても、「閑さや」「ありがたや」のような主観語を持ってきても、一句の中心をなすものとして感動の重さをになっている。それに対して「頂上や」はいかにも軽く、無造作に言い出した感じで、半ば切れながらも下の句に自然につながっていく。
特別の感慨もないような「頂上」という語に、「や」という切字を付した点に、この句の表現史上の新しさがあるというのだ。だが、この句に吹いている風が、現代の読者のもとへ届かなかったとしたら、時代における新しさと言うのも、何の意味があるだろうか?この句に吹いている風は、いまなお清新に、私たちを魅了するのだ。
「頂上」と打ち出されたときに、読者の脳裏にはさまざまな山が浮かぶ。富士のような大山を思い浮かべる者もあれば、比較的低い山を思い浮かべる者もある。「や」という、強い切字を用いている点からしても、前者のように高い山を思い浮かべる読者の方が、多いのではないだろうか。そのような山を思い浮かべた読者にとっては、後に続く「殊に野菊の吹かれ居り」を目にしたとき、この山が野菊などの咲くような比較的低い山であることに思い至る。草花など咲かないような高山の頂を思い浮かべていた読者にとっては、軽い驚きを覚え、「野菊」の可憐さがいっそう胸に沁みてくるに違いない。
「頂上」の句は、山本が「大正時代の俳句の軽やかで自由な表現は、こういう句が先蹤をなしている」と述べているように、歴史的名句でもあるが、同時に普遍的名句と成り得ている。たとえばこの句、先ほど述べた言葉の意外性という点以外にも、映像美がある。頂上という大づかみな景観から始まって、「殊に」でカメラのズームが絞られ、その先には「野菊」がある。ただ野菊があるというだけでなくて「吹かれ居り」で動きが加わることで、印象はより鮮明になる。また、秋の諸々の草々の中で、とりわけ「野菊」の吹かれる様がなよやかで目を引くという、感覚的な発見もある。この句の普遍的名句であると言うのは、言葉の意外性、映像美、感覚的発見といった、時代によって変化しにくい美点を具えている句だからだ。
山川に高波も見し野分かな 大正元年
高波と言えば海のそれを思い浮かべるが、野分の激しく吹く日には、山川にも高波が立つというのだ。「見し」は「見たる」でも良いのだろうが、やはり語調の上から言っても、「見し」という鋭い言い方が適っている。野分ゆえに山川に高波が立った、という理屈は通っているのだが、そうした因果関係の散文性を微塵も感じさせない。「見し」の切迫した語勢を、「かな」の切字が発止と受け止めている。言葉同士の阿吽の呼吸が、ここにはある。
蔓踏んで一山の露動きけり 大正2年作
山中で何気なく地を這う蔓を踏んだところ、近くの藪ががさがさと鳴って、露がはらはらと零れ落ちた。蔓が引っ張られるのに伴って、蔓が巻きついていた他の枝や葉が友連れになって動いた、というのが現実的な観測だろう。「一山の露動きけり」とは、過剰な表現であるが、観測を詩に高めるためには、必要な過剰さであったのである。
この句は「露」という季語の働きに独創がある。「露」はもちろん、和歌的美意識の上では儚いものの代表であり、すぐに干上がってしまうところに、人生の無常を重ねて詠われる自然現象であった。この句においても、ちょっとした動きに非常に敏感に反応するところは、伝統的な「露」の本意に則っているといえるだろう。だが、その後の展開─すなわち、一山の露が動き出すという展開は、その本意を突き抜けている。実に動的な「露」であり、このような「露」の詠まれ方は、当時においても、また現在においても、やはり清新なのである。
この句は、山歩きの感慨を詠っているもので、表面的には自然詠に分類されるのであろうが、作者の強烈な自意識も底に感じられる。自分の動作(ここでは踏むという動作)によって、一山の自然に影響を与えるという、支配者的喜びが横溢している。人物史の上から石鼎を見たときには、どこにも居場所のなかった石鼎が、深吉野の自然の中で自分の存在意義を見出したときの喜びを、この句に読み取ることができるかもしれない。
秋風や模様の違ふ皿二つ 大正3年作
この句には長い前書きが添えられている。曰く「父母のあたたかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は伯州米子に去って仮の宿りをなす」。こういう前書きが付いている以上、石鼎の境涯が知りたくなる。
石鼎の生まれは島根県簸川郡塩冶村(現在の出雲市塩冶)である。家業を継ぐべく医学の専門大学に入学するも、文学や芸術に熱中して中退、放浪生活に入る。吉野で医師をしている兄のところに一時身を寄せたが、二年足らずで出てしまい、郷里に近い米子に仮寓する。「秋風」の句はこの時期の作である。時に大正三年、石鼎は二十八歳。
山本健吉が「落魄した男の独り暮らしを想像できる」(『現代俳句』)と鑑賞しているように、この句は石鼎の放浪の人生が投影された句として読まれてきた。落ち着かない生活の中で、食器をきちんと一式そろえる余裕もなく、ありあわせの皿ですませている。そんな暮らしの寂しさを詠んだ句とされてきたのだ。
しかし、この句は前書がなくても、石鼎個人の事情を勘案しなくても、十七音できっぱりと独立していると思う。まず、何も食物を載せていない皿を題材にしているところからして、常識から外れていて目を引く。皿は、食べ物を盛る器であることが存在価値の第一だ。もしくは、皿そのものの色や形を賞翫することもあるが、この句においては、そのどちらでもない。皿の模様の違いにじっと見入っているというのは、思えば異常な行為だ。作者は皿の向こうに、人間を見ている風である。皿が一つ一つ違うように、人間もまた一人として同じ者はない。個性があるというのは楽しいことだが、分かり合えない苦しみも、一人一人違う存在であるという点に起因する。「秋風」は、そんな苦しみや寂しさに通じている。
読者によって、この句から受け取る感情はさまざまであるに違いない。あるいは只事と受け止める読者もいるだろう。深い象徴的な意味を読み取る者もいるだろう。それは一句の懐の深さと言い換えてもよい。石鼎の代表句としての地位は揺るがないのである。
寒天へ掃き出す埃に歓喜あり 大正7年作
部屋の埃を箒で掃きだしている。青空の光の中に、きらきらと輝きながら消えていくのだ。光とか輝きなどと言ってしまっては面白みもないが、「歓喜あり」は意表を衝く。狭い部屋の中に滞っているよりも、広い青空へ出た方が、埃も嬉しいのだろう。人間の側ではなく、埃の側に立って詠んでいるという、なんとも珍しい句である。
火星いたくもゆる宵なり蠅叩 昭和2年作
火星のあかあかとした光を見せた後で、唐突に「蠅叩」が来る展開に驚かされる。火星の火を燃えたたせ、蠅を元気に飛び回らせているのは、夏の暑さだ。宵になってもなお、暑さは衰えていないのだ。いわゆる取り合わせの句であるが、いかに計算しようと「蠅叩」は出て来ないのではないか。実際にそこに蠅叩きが置かれていたのだろうと思わせる確かな真実味がある。
青天や白き五瓣の梨の花 昭和11年作
青空が広がっている。その下に、白く汚れのない五つの花びらを広げて、梨の花が咲いている。構図として、これ以上ないほどに簡素、単純である。その簡素、純と言う形容は、そのまま「梨の花」の有り様に当てはまるのである。
「白き五瓣の」は、「梨の花」の描写として当たり前のようでもあるが、その白さを強調し、あるいは「五弁の」ということでその花の鋭さを強調することで、まだ春寒の頃の空を背景にして咲く「梨の花」の冷え冷えとした印象をより鮮明に伝えている。
あんぱんを五つも食うて紅葉観る 昭和11年作
他愛もない句で、石鼎の句とも思えない。だが、こういう面が石鼎にあったというのも、確かなのだ。あんぱんは間食で食べるという場合が多いだろうが、ついつい五つも食べてしまうと言うのは、堪えの効かない人柄なのだろうか。何となく憎めない人物像が彷彿する。紅葉をしんみりと見ているわけではなく、紅葉があんぱんのオマケのようになっているのが何とも可笑しい。
大いなる初日据りぬのぼるなり 昭和18年作
沖の初日が静かにのぼりはじめた。動き始める前に、「据りぬ」という状態があるというのは、非凡な直感だ。実際には太陽は上り続けているわけで、一瞬たりとも静止することはないのだが、まるで初日が海上に鎮座しているかのように表現して、初日の出が目に飛び込んできた一瞬の感動を、言葉の上に再現している。初日の出のめでたさを正面から捉えて、迫真の句である。
わだつみの底ひもしらず梅雨静か 昭和24年作
海の上に静かに梅雨の雨が降っている。ひたすらに降る雨の動きを見つめるうちに、次第に心は海の底へ潜っていく。もちろん、雨が降っているのは海の表面に過ぎないのだが、こう言われると、深海まで雨が通ってくるかのような幻想に囚われる。このまなざしの深さということが、石鼎という俳人の本質的な部分にあり、それは晩年まで失われることは無かった。