橋本多佳子2016.6.15
わがために春潮深く海女ゆけり 『海燕』
「志摩」と題された連作の中の一句である。海女の漁を見物しにいったのだろう。ためし
に潜って何か獲ってきてくれと頼んだところ、請け合った一人の海女が海に没する。「わが
ために」などと言っているが、感謝の気持ちは微塵もない。海女の労苦を、むしろ快く思っている風だ。メイドを思うままに使う女主人さながらである。
この非情さは多佳子の句の持ち味であり、師である山口誓子との共通性でもある。ただ、多佳子の句は客観的で非情ではあるが、誓子のように冷徹な印象はない。この句なども、海女を使役していかにも満足げなところなど、どこか可笑しみもある。物語であれば、この女主人は終盤に手痛いしっぺ返しを食らいそうだ。この可笑しさというのは、多佳子があくまで真剣だからこそ可笑しいのである。
枯園に靴ぬがれ少女達を見ず 『海燕』
脱いで揃えられた靴の群は、さきほどまで庭に少女たちがいたことを証明している。だが、靴ばかりが褪色の景色の中で目立ち、肝心の少女たちがどこにも見当たらない。彼女たちはどこへ行ってしまったのだろう。「聖母学院」と題された連作の一句である。真相は、ほんの数刻、たまたま少女たちが視界から失せたというのに過ぎないのだろう。しかし、彼女たちがもう永久に帰ってこないような、奇妙な喪失感があって、魅かれる句である。この、あるべき人のいない喪失感は、後年の〈乳母車夏の怒濤によこむきに〉の名吟にも流れ込んでいる。
母と子のトランプ狐鳴く夜なり 『信濃』
多佳子の句にはわが子を詠んだ句も多く、そうした句では持ち前の非情さは鳴りを潜めて、優しく穏やかな詩情を湛えている。この句は「母と子のトランプ」という暖かな家庭の風景に、「狐鳴く」という寒々しい外界の入りこんでくるところが目を引く。元来出会うべくもない母子と狐とではあるが、しっくりと同じ風景の中に溶けこんでいる。それは、「狐」がしばしば童話に登場する生き物だからだろう。新見南吉の童話「手袋を買いに」の中で、子ぎつねが街へ出かけた帰り道、家の窓ごしに、人間の母子の会話を聞くという場面がある。そこで人間の子は「母ちゃん、こんな寒い夜は、森の子狐は寒い寒いって啼いてるでしょうね」と母に言うのだが、多佳子の句の母子も、こんなふうな言葉を交わしているのかもしれない。この一句そのものが童話調であり、母子も狐も絵本のページの中に暮らしているような幻想性がある。
中村汀女の〈咳の子のなぞなぞあそびきりもなや〉(『汀女句集』)も思い合わされるが、多佳子の句の場合は「トランプ」という洋風の遊びであることがモダンな雰囲気を一句に与え、その硬い紙質によって、穏やかさの中にも凜々しさを感じさせる母子像を描き出している。
いなびかり北よりすれば北を見る 『紅絲』
『紅絲』は多佳子の句業の最高峰を成す句集であろう。中でもこれは珠玉の一句である。「いなびかり」は多佳子の好みの季語だったようで、この句以前にも、多くの稲光の句を詠んでいる。それらの句群は、この一句を得るための試行であったといってもいいだろう。稲妻の光が北の空から投げかけられたから、思わずそちらのほうを向いた、という内容は、ほとんど生物的な反応を書いただけの只事といってもいい。この句は、「北」の字をよく噛みしめてこそ、本当の妙味が分かる。「北」は五行説では黒、冬を指す。冬は死の季節である。あるいは、北枕などといって北を不吉な方向と見る習俗も、軽視できない。また、北方の寒冷地のおもかげも立ってくる。「北を見る」は、淡々と述べているが、そこに不幸や災害などへの脅えの感情を感じないわけにはいかない。「いなびかり」は「いなつるび」とも言い、日本の農耕民にとっては稲の実りを約する現象であったが、ギリシャ神話ではゼウスは神威をふるうときに雷を落とすし、北欧神話の雷神トールは荒くれ者として恐れられた。多佳子の句の「いなびかり」は、どちらかといえば西洋の神話のイメージに近いようだ。そこには罪に対する罰という象徴的な意味合いも込められている。音と光に反応すると言う、あくまで生物的な本能を言っていながら、大いなる存在への畏れという宗教的命題を抱え込んだ一句になっている。
山の子が独楽をつくるよ冬が来る 『紅絲』
薪にした余りの木切れをもらったのだろう。小さなナイフを懸命に使っている。現代になってはなかなか見られない、懐かしく和やかな景である。「つくるよ」「冬が来る」の朗らかな口語調の一方、「独楽」の字面は、この「山の子」の孤独も思わせる。
多佳子らしい句とはいえないだろうが、この「山の子」には、俳句作りにひたむきに打
ちこむ多佳子自身が重なるように思われて、気になる句である。
凍蝶も記憶の蝶も翅を缺き 『紅絲』
凍蝶は、冬になって死にかけている蝶のこと。翅の欠けた凍蝶を見て、自分の記憶の中に、同じように傷ついていた一匹の蝶があることを見出した。「記憶の蝶」とは作者自身の内面を象徴しているのだろう。すなわち、目の前の凍蝶と同じように、傷ついた痛ましい思い出が、心の中になお消えずに残っているのだ。それを言うのに「心の蝶」などとしてしまっては、心象に傾きすぎて曖昧になってしまう。「記憶の蝶」としたことで、確かに過去のある地点に実存した蝶であることが示される。多佳子俳句は情念的であり感傷的であるが、そこには必ず具象や実感の裏付けがある。だから曖昧さやあやふやさとは無縁でいられるのだ。
雄鹿の前吾もあらあらしき息す 『紅絲』
多佳子の代表句として必ず挙げられる句である。情念の濃さとエロティシズムに圧倒されてしまう。ただ、雄鹿と張り合っているようにも見えて、暖簾に腕押しというか、糠に釘というか、どこか馬鹿馬鹿しくもある。そしてこの間抜けさ、馬鹿馬鹿しさを内包しているからこその、多佳子の代表句でもあると思うのだ。さきほども述べたとおり、これは多佳子があくまで真面目に鹿に取り込んでいるからこそ滲み出る、絶妙な可笑しさなのである。
〈雪はげし抱かれて息のつまりしこと〉〈泣きしあとわが白息の豊かなる〉〈罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき〉といった女の情念を謳いあげた句を、多佳子俳句の第一の特徴として挙げる見解がある。しかし、それは多佳子俳句のある一面にしか過ぎないのではないか。多佳子俳句の真骨頂とは、非情さの底に、ある種の可笑しみをまじえた句にある。そうした句の前では、かえって情念だけの句は色あせてしまう。「雄鹿」の句はそういう意味で、可笑しさを含んだ秀句といっていい。
星空へ店より林檎あふれをり 『紅絲』
この句を映像にするなら、カメラのアングルは、地面に近いところに置きたい。果物屋の軒下に積まれた林檎を、ちょうど麓から山を仰ぐような格好で、レンズにおさめてみる。そうすると、この句の感じになるのではないだろうか。
特異な視点の置き方である。ふつう、店先に置かれた林檎に対するときには、見下ろす形を取るのではないだろうか。少なくとも、林檎と星空とは、同一の視界には入ってこないだろう。この句は、ともに丸く、輝いているという理由によって、林檎と星とを同じ画面の中におさめてしまった面白さがある。そればかりか、「あふれをり」として、ただ置かれているにすぎない林檎を、動的に描き出した。結果、あたかも星に魅了された林檎たちがつぎつぎに夜空になだれこみ、ぴかぴか光る星に変化してしまうような、実に痛快で童心溢れる句が生まれた。
乳母車夏の怒濤によこむきに 『紅絲』
乳母車が、夏の海のほとりに、放っておかれている。「よこむきに」の写実には瞠目するべきである。あくまで写実として乳母車の描写をしながら、それでいていつ無防備な乳母車を波が攫うかもしれないという危機感も醸し出している。
この句は乳母車は空っぽであるとするのが、自然な読み方だろう。乳母車に子を乗せて海を見に来た母は、浜辺で子を抱いて、乳母車をそのままに波打ち際を歩いていったのだろう。乳母車は軽んじても、赤子のことをないがしろにする親は、あまりいないはずだ。だが、それを分かっていてなお、乳母車の中に赤ん坊が置かれていて、海に捧げられた生贄のように、そこで泣いているというイメージも捨てがたい。そう解釈すると、アイラ・レヴィン『ローズマリーの赤ちゃん』のような、ホラー小説の趣を帯びてくる。残酷なビジョンであるが、そうした非人情の句としても読めるところが、この句の奥行となっているのではないか。
白桃に入れし刃先の種を割る 『紅絲』
白桃ほど柔らかい果肉と硬い種子との落差に驚かされる果実はないだろう。ナイフが思う以上に深く果肉に沈み、勢い余って内部の種に届いたというのだ。「ハ」の音の繰り返しがただならぬ気負いを感じさせる。そのため、これも多佳子の情念の深さを物語る句として知られているが、ここにも、力まざるを得なかった作者のほかに、力んでしまった自分を可笑しく思うもう一人の作者がいるのではないか。なにかしら致命的なミスを犯したわけではなく、所詮は種を割ってしまったにすぎない。隠しておけば隠しておけることであるし、そもそもそんなことに気づかないというのが普通の人情であろう。そこに気づき、大きな驚きをもって描いているということ自体が、やはり傍目から見ると可笑しいのである。情念の多佳子、真面目な多佳子という先入観を取り払ってみると、そこには自然や人事の一つ一つに大仰に反応してしまう、繊細で可憐な多佳子が顔をのぞかせる。そんな多佳子像のほうが、私にとっては親しみやすいのだ。