富澤赤黄男2016.6.15

 

青蚊帳に錨のごとくわれはねむる  「魚の骨」

 蚊帳の青い色は、私たちに海の青さを思い出させる。たとえば、金子みすゞの「蚊帳」と題された詩の中に、次のようなフレーズがある。「蚊帳のなかの私たち、/網にかかったお魚だ。//青い月夜の青い海/波にゆらゆら青い網。」。赤黄男の句は、「海」「波」「魚」などの言葉を使わないで、「錨のごとく」で青蚊帳の海に似た幻想性を表現している点に工夫がある。新興俳句の旗手であった富澤赤黄男の、初期の佳作である。

 もちろん、海のイメージを呼び起こすことだけが「錨のごとく」という比喩の手柄ではない。船を停泊させるために海に沈める「錨」は、眠りに入った「われ」の体の重さと眠りの深さを感じさせている。「われはねむる」と言って、眠っている自分をかたわらから眺めているような視点の置き方も独特だ。この句の情景そのものが、「われ」の見ている夢の中の情景に思えてくる。

 

ペリカンは秋晴れよりもうつくしい  「魚の骨」

 

 「ペリカン」という鳥は、日本の文学史に何の接点もないような鳥だ。同じ鳥でも「鶴」だの「白鳥」だの「鴎」だのは、文学臭をまといすぎている。その点、「ペリカン」は文学的にはまったくのルーキーで、だからこそ自由で大胆な扱いが可能になる。

 「秋晴れの下のペリカン」などとしてしまえば、平板な動物園の吟行句に過ぎないが、「秋晴れよりも」と言って、本来比較するものではない「ペリカン」と「秋晴れ」とが並べられていることに驚かされる。この比較によって、不恰好でおおよそ秀麗とは言えない「ペリカン」が、輝かしい鳥として生まれ変わっているのだ。一般には「うつくしい」という直情的な言葉は、俳句において次元の低い表現とされるが、ここでの「うつくしい」の使われ方は、常識を逸脱している。「うつくしい」という陳腐な言葉が、詩の言葉としてこれほど輝いている例も、珍しいのではないか。

 

爛々と虎の眼に降る落葉  『天の狼』

 

 この句を読むとき、「爛々と」がどこに掛かっているのか、ふと分からなくなる。直接的には「虎の眼」に掛かっているとみるべきだろう。しかし、「降る落葉」にも掛かってくるようでもある。読むうちに、言葉の関係性がつぎつぎ変化していくのが、赤黄男の句の特徴の一つだ。  この句に触れるとき、読み手の意識は、いくたびも屈折しないではいられない。「爛々と虎の眼」のフレーズは、獲物を狙う虎をイメージさせるが、それが「~に降る落葉」に至って、曖昧になる。虎は、獲物と言うよりも、落葉を見ているようでもある。しかも、ただの落葉ではなく、「爛々と」の働きによって、落葉までもが何かの意志を持って降ってくるように感じられる。結果として、虎が何を見ているのかが曖昧になり、その分、「眼」そのものの凄味が強調されてくる。異様なまでの迫力を持った「眼」である。風が吹き、落葉が散るのにも、まったく動揺しない「眼」が、読者の方を見据えている。

 

瞳に古典紺々とふる牡丹雪  『天の狼』

 

 この句も一筋縄ではいかない句だ。まず「紺々」という言葉に読者は幻惑させられる。ごく自然に一句の中になじんでいるので、深い青色を表す「紺々」という言葉があるのかと錯覚してしまうが、もちろんこんな言葉はない。赤黄男の造語といっていい。「こんこん」という音では、「昏々」「懇々」「滾々」という言葉がある。「紺々」の音は、読者の意識に「昏々」や「懇々」や「滾々」という言葉を呼び起こす。その効果は、一句の世界に、かすかであっても影響を与えている。牡丹雪は、暗く(昏々)、繰り返し(懇々)、尽きぬごとく(滾々)に降ってくるのである。 そこで、肝心の「紺々」をどう受け取るのかについて、考えてみたい。まず、「爛々と」の句と同様に、この句もまた、常識的な言葉の関係性が意図的に乱されている。まず、上五の「瞳に古典」からして、実に奇妙な表現だ。「古典を読む」とすればごく当たり前の表現だが、あえてその慣用的な述べ方を崩している。ともあれ、「眼に古典紺々と」のフレーズは、コの音の頭韻を踏んだ調子の良さもあって、すんなりと読めてしまう。「古典」の表紙の紺色(たとえば『源氏物語』の青表紙本)のイメージが、読者の脳裏に広がる。だが「紺々とふる牡丹雪」に至って、この「紺々と」が「牡丹雪」にも掛かっていることが明らかになる。雪は白いというのが常識である。紺色の空に雪が降っているというのが常識的なイメージなのであって、「紺々とふる牡丹雪」は、その紺と白の関係を反転させていることになる。読者はここでも転倒に出くわす。「爛々と」の句と同様、読んでいくうちに、言葉の関係性が次々に変化していく。霧に巻かれたような感覚にとらわれてしまう。

 このようにつぶさにみていくと、赤黄男の句には迷宮のように複雑な仕掛けがある。ところが、一句そのものの姿は、非常にシンプルなのである。調べもなめらかで、口にして心地よいし、一句の言葉に難しいものはない。文体も、切字を用いたり、対句的表現を取ったりして、意外なほどに保守的だ。複雑な言葉の絡み合いと、簡潔な句の形を両立させているのが、赤黄男という作者の他に替えがたい特質だ。

 

花粉の日 鳥は乳房を持たざりき  『天の狼』

 

 「花粉の日」というと、現代ではスギ花粉がさかんに飛ぶ日と誤解されそうだが、これは野や山の花々に花粉が溢れている日、という意味だろう。自由の翼を持っているという点で、鳥は人の関心を引いてやまない生き物である。憧れる分、その体の特質が、人間と異なることが目につくのだろう。飯島晴子にも「吊柿鳥に顎なき夕べかな」の句がある。

 「花粉」と「乳房」はともに生殖にかかわる語彙である。しかし、生々しいエロスは、この句には感じられない。この句の「鳥」は妖艶というよりも、むしろ少女のように可憐である。「花粉」という言葉の持つロマン性が、性の生々しさを程よく打ち消している。

 

  落日に支那のランプのホヤを拭く

  やがてランプに戦場のふかい闇がくるぞ

  灯はちさし生きてゐるわが影はふとし

  靴音がコツリコツリとあるランプ

  銃聲がポツンポツンとあるランプ

  灯をともし潤子のやうな小さいランプ

  このランプ小さけれどものを想はすよ

  藁に醒めちさきつめたきランプなり  『天の狼』

 

 赤黄男が戦地から軍事郵便で送った連作で昭和十四年一月号の「旗艦」に掲載された。「ランプ─潤子よお父さんは小さい支那のランプを拾つたよ─」という題が付けられている。連作俳句の名作の一つであり、全ての句を引用した。拾ったランプを灯して、塹壕で不安な一夜を過ごしていることがうかがえる。「潤子」は、日本に残してきた赤黄男の一人娘の名である。小さなランプを通して、遠い地にある娘のことを思い出しているのだ。潤子という娘への私信でありながら、一人の兵士の物語としての普遍性がある。「コツリコツリ」「ポツンポツン」といったオノマトペを用いて、童話のような語り口だが、それがかえって孤独感や不安感を強めている。

 

秋風の下にゐるのはほろほろ鳥  『天の狼』

 

 表面上は何気ないスナップのようだが、単純な句ではない。まず「秋風の下」という表現が目を引く。ふつうの書き手であれば「秋空の下」や「秋晴の下」などとしてしまうのではないか。「秋風の下」とすると、空の高さがよく感じられ、広大な景のいちばん底であるという孤絶感が出てくる。「ほろほろ鳥」も、そこにいたという現実よりも、涙の落ちる音を思わせる「ほろほろ」の字面が肝要なのである。感情的な言葉を入れることなく「秋風」の物悲しさを書ききっている点に瞠目する。

 

甲蟲たたかへば 地の焦げくさし  『蛇の笛』

 

 甲虫が角を突き合わせて戦っている。それはごく小さな舞台で繰り広げられているのだが、「地」と大きく捉えたことで、甲虫が実際以上の存在感を得ている。「地の焦げくさし」とは、もちろん感覚的な表現なのだが、甲虫の黒い体?や、その戦いの激しさを感じさせていて、実感もある。現実に即して言えば、夏の炎天が地を焦がしているのだろう。しかし、甲虫の戦いの激しさが地を焼くようだ、という、現実を超えた感覚こそがこの句の本領だろう。

 

羽がふる 春の半島 羽がふる  『蛇の笛』

 

 うみねこか、鴎か。白い海鳥の羽を想像する。こうした光景は誰しも目にしたことがあるだろうが、この句の言葉が現出させる風景は、奇妙に現実離れしている。「羽がふる」のフレーズが一句のはじめと終わりに繰り返されていることで、循環が生まれ、あたかも永遠に半島に羽が降り続けているような錯覚にとらわれる。「春の半島」の「春」という季節の設定も、その長閑さでもって、永遠性に拍車をかけているようだ。

  草二本だけ生えてゐる 時閒  『黙示』

 赤黄男の最後の句集である『黙示』は、現実性や境涯性を強く拒んで、難解な句集である。「草二本だけ生えてゐる」のは、あくまで空間的な把握なのだが、最後に「時閒」の軸が加わることで、読者の意表を衝く。「草二本」だけという、ほとんど何もない空間だからこそ、そこに時間という見えない流れを炙り出して見せることができたのだろう。

 

   ぜろの中 爪立ちをして哭いてゐる  『黙示』

 

 『黙示』の最後を飾る句である。原始のようでもあり、終末のようでもある「零」の〝無〟の時間・空間は、その直後の一字空けにもよく形象化されている。仮に「零」を「0」と表記すれば、「爪立ちをして哭いてゐる」人物の立ち位置が分かりやすくなるが、「零」の持つ〝無〟としての意味合いが弱くなってしまう。「爪立ちをして哭いてゐる」には、ただならぬ感情の高ぶりを感じる。「爪立ち」は身体に無理を強いる姿勢であるから、そこに悲痛さが感じられるのだ。この世のはざまに落ちこんでしまった者が、そこで永遠にどこへも行けないで泣き叫んでいるようだ。これを赤黄男の自画像と取ってしまうのは安易だろう。このようなところに陥ってしまう可能性は、私たちの誰もが持っているからだ。

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