飯田蛇笏[1]2016.6.15

 

もつ花におつるなみだや墓まゐり  『山盧集』

 

 明治二十七年、蛇笏が九歳の時の句である。芭蕉が「俳諧は三尺の童にさせよ。初心の句こそたのもしけれ」(『三冊子』)と言ったように、さかしらな大人よりも、言葉を飾るすべを知らない子供の方が、ときにすぐれた句を作ることがある。そうはいっても、私たちは普段、子供の俳句と大人の俳句を区別してしまっているのではないか。結社誌でも、子供の投句欄を別に設けているところがある。俳句大会でも、「大人の部」と「子供の部」とで投句先を分けているのが普通だ。

 蛇笏のこの句は、子供の作った句だから良いというのではない。純粋に作品の完成度が高いのだ。それは、墓参の悲しみを子供ながらにわかっているからではなく、悲しみを物に即して表すという、俳句表現の原則がしっかりと踏まえられているからだ。いささか通俗的なきらいはあるが、この句は大人の俳句の舞台にあがっても、まったく遜色のない句である。才能という言葉を安易に用いることは慎みたいが、九歳の作としてこのように俳句形式の要諦を弁えた句を見せられると、やはり蛇笏というのは俳句に選ばれた人なのだと思わせられる。

 まだ墓に捧げる前の、「もつ花」に涙が落ちているのだから、花の持ち主はあふれくる悲しみをこらえきれなかったのではないか。遠忌というよりも、ここ数年の、生々しい死の記憶が、この句には書きつけられている。蛇笏は生涯、その作品を通して死を見つめ続けたが、すでに幼少期からその萌芽はあったことを、この句は示している。

 

鈴の音のかすかにひびく日傘かな  『山盧集』

 

 夏の強い日差しが降り注いでいる。暑さで人々を苦しめる太陽の下、日傘の中でかすかに響く鈴の音ばかりが、救いなのだ。日傘の主についてはまったく触れていないが、おそらくは涼しげな麗人であろうと空想を誘う。「かすか」の形容は、その日傘の主にも及んでいるのだろう。炎天下を歩むには、いかにも頼りなさそうだ。それゆえに儚い美しさがある。これもごく初期の作品であり、月並み俳諧的な俗臭がないわけではないが、繊細な感覚と簡勁な句の姿には、捨てがたい魅力がある。

 

かりそめに灯籠おくや草の中  『山盧集』

 

 これから川へ流す灯籠を、一時的に、草むらの中に置いた。「灯籠」といえば本来、水の上を流れているさまを詠むものだが、水ではなく「草の中」に「灯籠」を見出したのが、この句の手柄である。「や」の切字は、この場合、一句の調べを整えるために働いているが、ここに一呼吸あることで、灯籠を置いた人物のふっとした心の動きが感じられる。「灯籠」はいうまでもなく、死者の魂を弔うためのもの。心の中に死者のことを宿しながら、かりそめのひとときとはいえ、その重さから解き放たれた一瞬を言いとっている。

 

芋の露連山影を正しうす  『山盧集』

 

 蛇笏の代表句というにとどまらず、近代俳句の名句として厳然として輝きを放つ一句である。すっかり名句として定着してしまった今は、見過ごしてしまいがちだが、「芋の葉の上の露の玉」を省略した「芋の露」は、思い切った措辞だ。ともすれば、「露の玉のように小さな芋」だとか「露がかかってしっとりと濡れている芋」というように、誤読されてしまうかもしれない。ここでは「芋の露」として上の五文字におさめておく必要がある。つぶらな露の玉の感じを出すためには、くどくどと長い字数をかけるわけにはいかないのだ。

 この句においてたっぷり字数をかけて述べられているのは、芋畑の向こうに見える「連山」の方である。ここでいう「影」とは、姿かたちのこと。山々が居住まいを正しているようだ、と口語に直してみると、まったく覇気が失われてしまう。やはり「連山影を正しうす」の漢文調の響きが求められるのである。「正しうす」の語感は、地に突き立つ槍のように鋭い。

 山を擬人化する着想は、蛇笏の息子、龍太にも受け継がれて、〈山河はや冬かがやきて位に尽けり〉(『百戸の谿』)〈山々のはればれねむる深雪かな〉(『忘音』)〈野老掘り山々は丈あらそはず〉(『山の木』)などの句を生んでいる。どれも秀吟だが、蛇笏のこの一句ほどの気迫は持ち得ていない。「影を正しうす」というほどの覇気と威厳を、人々が詩歌に求めなくなった時代ゆえだろうか。

 

もちいでて身にそふ秋の団扇かな  『山盧集』

 

  〈くろがねの秋の風鈴鳴りにけり〉(『霊芝』)とともに、蛇笏の時節の過ぎたものへの愛着
を感じさせる句である。もう遅いかとためらいながらも、秋暑が身にこたえてはいけないと、念のために持って出た団扇が、意外に役立った。やはり、まだまだ団扇が要る暑さだったと、自分の判断に満足している風である。「くろがねの」の句は、時季が外れてもなお使われる道具の哀れを書いているが、この句の団扇は、時季を過ぎてもなお重宝されている。「身にそふ」の語感の柔らかさが、寛いだ気分を存分に伝えている。

 

なきがらや秋風かよふ鼻の穴  『山盧集』

 

 幼いころに作った墓参りの句にはじまり、蛇笏の俳句が死の匂いから離れることはない。ときにネクロフィリア(死体愛好者)的な句が散見されるのも、蛇笏俳句の特徴である。これはその一つで、「仲秋某日下僕孝光の老婆が終焉に会ふ。風蕭々と柴垣を吹き古屏風のかげに二女袖をしぼる」という前書きがついている。前書きと合わせて読めば、下僕の家の者の悲しみに心を寄せていることがわかるが、この句を単独で見たときには、死の悲しみは、さほど伝わってこない。死体を眺める視線には、可笑しさに近い感情すら潜んでいる。

 仰向けに寝かされた死体は、確かに鼻の穴が目立つ。それを、まるで崖に空いた風穴のように「秋風かよふ」と見た。鼻の穴は、顔の部位の中でも、どこか飄逸である。厳粛な葬儀の場でつくづく眺めるには不謹慎ではあるが、思えば、息の通わなくなった鼻の穴ほどに、死という現象をまざまざと感じさせるものはないのではないだろうか。「秋風とほる」では平板である。「秋風かよふ」は、秋風のなすがままとなった死体の哀れに切り込んでいる。

 

たましひのたとへば秋のほたるかな  『山盧集』

 

 「芥川龍之介氏の長逝を深悼す」と前書きがある。昭和二年の七月二十四日、芥川は自死の道を選ぶ。同じ年の初秋に詠まれた句である。東京の芥川と甲斐の蛇笏とは、手紙での交流を続けていたという。この句、なるほど芥川の神経の細さを象徴するのに、儚げな「秋のほたる」はしっくりくるが、芥川の追悼句ということを離れてもじゅうぶん通じる句である。「秋のほたる」にたとえられる魂を持つ人は、芥川ばかりではないだろう。

 「たましひ」を「秋のほたる」にたとえるとして、二つをどのように結びつけるか。「やうな」や「ごとく」でずばりと結びつけることもできただろう。「たましひのたとへば」は、ゆるい結び合わせ方である。どちらかといえば、消極的で、逡巡している風だ。その人をたとえるとしたら、何がもっともふさわしいか、じっくり考えている、そんな時間の長さが、「たとへば」という結び方にはうかがえる。あっさり答えを出してしまうのではなく、ためらいつつ答えを探している、その時間こそが、死者への思いを如実に物語っている。

 

秋の昼一基の墓のかすみたる  『山盧集』

 

 「若山牧水の英霊を弔ふ」と前書きがある。牧水とは大学時代、「早稲田吟社」で出会い、蛇笏がその後学業を捨てて郷里に帰ってからも交流は続いた。蛇笏を再び文学の道に戻そうと、わざわざ家を訪ねてきてもいたそうだ。そんな友人の死に際して作った句としてはあっさりしているが、余計な言葉を必要としない間柄であったことがうかがえる。

 「かすみ」は春の季語であり、秋には同じ現象を「霧」と呼ぶのが通例だが、ここでは「かすみ」の情緒的な語感こそが求められている。「秋の朝」でも「秋の夕」でもなく、「秋の昼」の明るさが、かえって墓の内側の暗さを感じさせる。〈白玉の歯にしみとおる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり〉の牧水の歌を思い合わせると、秋の夜長に酒を楽しんでいた蟒蛇うわばみ の牧水が、今は「秋の昼」の静かさに大人しく眠っているというのが、いかにも切ない。「の」の助詞の訥々と続く調べが、抑えた思いを偲ばせている。

 

をりとりてはらりとおもきすすきかな  『山盧集』

 

 はじめは「折りとりてはらりとおもき芒かな」と漢字とひらがなを混ぜた表記だったのを、漢字をすべてひらいて、現在の形になった。ひらがなの表記によって、芒のしなやかさを表しているとは、よく評されることだが、視覚的な表記ばかりではなく、音調の作り方においても隙のない一句である。「をり」「とり」「はらり」「おもき」「すすき」と、イの音で終わる語を重ねて、それでいてさりげない語の運びだ。また、上五は「をり」「とり」と動詞を連ねて引き締まった調子を出し、中七下五は「はらり」「おもき」「すすき」の三音の語をゆるやかにつなげ、緩急の流れをうまく付けている。まるで懐かしい童謡のように、時代を超えてこの句が私たちの胸に棲みつづけているのは、表記の面というよりもむしろ、口誦性によるところが大きいのではないか。

 蛇笏の句はときに内容が複雑、難解に傾く ことがあるが、調べが詰屈になることはない。どこで引き締め、どこで緩めればよいか、蛇笏の天賦の才をもっとも感じるのは、その作品の韻律の良さに触れたときである。

 

わらんべのおぼるるばかり初湯かな   『山盧集』

 

 いかにも楽しげな句であるが、この句にも死の影はある。何気なく使われているが、「おぼるる」の一語がそれである。死の影があるからこそ、生の喜びはひとしおになる。何の屈託もなく風呂の水で戯れている子供の姿は、水は人の命を奪うものであり、死はいつもどこかに潜んでいるという現実を、ひととき忘れさせてくれる。子供の楽しげな表情とともに、それを見つめる蛇笏の、安らいだ表情も浮かんでくる。

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