飯田龍太[1]2017.5.31

 

春の鳶寄り別れては高みつつ  『百戸の谿』

 

 飯田蛇笏の四男として生まれた龍太は、青春期には、蛇笏のあとを継ぐことを、予想もしていなかったにちがいない。父の影響から俳句に手を染めてはいたが、昭和二十一年、二十六歳の時、「農業世界」の募集論文で「馬鈴薯栽培法」が一等入選を果たすという年譜の記述からは、彼がこのまま何事もなく長ずれば、一農耕人としてひとかどの成功をおさめたのではないかと想像される。だが、この翌年には長男の、そしてさらに翌年には三男の戦死の知らせが届くという痛恨事が飯田家を襲う。とくに長男の聰一郎を後継と目していた蛇笏の狼狽ぶりは、並々ならぬものがあったようだ。すでに次男も病死していた飯田家にとって、本人の意思にかかわらず、四男の龍太に家業と俳句業の双方を担わせるほかなくなったのである。

 本来は兄が継ぐべきだった俳人蛇笏の跡目を否応なく引き受けることになった龍太にとって、父はどう映っただろう。むろん尊敬もしていただろうが、巨大な障壁でもあったはずだ。一言では片づかない思いは、初期の作品にも反映されている。たとえば掲句は、しばしば春を謳歌する鳶への賛歌と解されるが、「寄り」「別れ」「高む」と動詞を矢継ぎ早に畳み掛けた措辞は、喜びよりも狂おしさの方をむしろ強調してはいないだろうか。それはもちろん、生殖の使命を何に替えても果たさなくてはならない鳥獣の狂おしさなのだが、それを仰いでいる主体にも伝播し、胸を掻きむしりたくなるような切なさと苦しみの声が底から聞こえてくる。「一句に一動詞」が原則と言われる俳句において、これほどまでに動詞を多用した異形の文体には、一刻も早く偉大な父・蛇笏の句境に近づかねばならないという龍太の〝性急さ〟が反映されているようだ。

 龍太の句には、こうしたファルスをなぞるような垂直性の動きがしばしば見られる。

 

 

雪の峯しづかに春ののぼりゆく   『童眸』
秋冷の黒牛に幹直立す   同
炎天のかすみをのぼる山の鳥  『春の道』
朧夜のむんずと高む翌檜  『山の木』

 

 

 そこに父・蛇笏の面影を見ることはたやすい。だが、正確には、蛇笏俳句の凜々しい句
の立ち姿への憧憬が、こうした垂直のモチーフとして、龍太俳句に折々噴出するのではな
いか。

 しかし、若き龍太は父・蛇笏の作風に甘んじることはなかった。

 

黒揚羽九月の樹間透きとほり『百戸の谿』

 

 漢文調の硬質な調べを得意とする蛇笏と比べれば、龍太の調べは軟質である。かといっ
て、散文的、説明的に緩んでいるというわけではない。一本筋は通っているのだが、その筋はしなやかで、曲がることを怖れない。蛇笏が孟宗竹なら、龍太の句は真竹の趣である。龍太自身の資質か。戦後という時代の自由な雰囲気ゆえか。おそらくはその両方なのだろう。蛇笏の句は孤高のたたずまいで近づきがたいが、龍太の句は親しみやすく、覚えやすい。
 この句の場合、「くろあげは」「くがつ」と軽快に韻を踏みつつ、「透きとほり」と連用形で力を抜いた締め方をしている点、龍太の音感の良さを示している。夏の盛りの頃より衰え始めた九月の森の印象を、「透きとほり」で手際よく押さえている。「黒揚羽」もまた、活動力を失って、残像さながらに漂うばかりなのだろう。ぬるい水を泳ぐような心地よさをもたらしてくれる句である。

 

露の村墓域とおもふばかりなり  『百戸の谿』

 

 『百戸の谿』は、龍太自身が後に述べているとおり、憂愁の色が濃い句集だ。国学院大学に学び、一時は都会の空気を吸ったからこそ、家を継ぐために甲斐の境川村に定住せざるを得なくなったことの鬱屈は、より深いものになっただろう。甲斐の地が悪いというのではない。若者にとっては、山に囲まれた地が、あまりに狭すぎたということだ。
 父・蛇笏の著名な「芋の露連山影を正しうす」に見られるとおり、「露」は草木に宿る。「村」全体に掛かっているかのような「露の村」の表現は、相当の誇張である。しかし、草の生い茂った「村」ならば、大きく「露の村」と括っても、さほど無理はない。

 「村」という人間の存在を色濃く感じさせる語のために、「露」は本来の自然現象としての意味合いが薄れ、儚いものの代表という古典的な本意が、前面に引き出されてくる。朝、そこかしこの草木ばかりか藁屋根までもが露にしとどに濡れた村は、栄華や発展とは程遠く、静まり返っている。「墓域」と喩えたのは、老人ばかりで、死にゆく者が多いというのもあるのだろうが、その湿っぽさ、活気の無さを含めての侮蔑的比喩である。侮蔑ではあるのだろうが、不快な感じがしないのは、「ばかりなり」というところに、当事者としての意識が垣間見えるからだ。「墓域」と蔑んでいる主体は、旅人などの部外者ではない。村に関わりのある人間だ。彼自身の生活もまた、墓域の一部として在り、すでに死者となってしまったような気分に陥ることもあるのだろう。「ばかりなり」という下五には、「つくづくそう思う」というニュアンスがある。村の事をよく知っている人間だからこそ、どう繕ってもやはり「墓域」としか思えないのだ。
 直接的な内面吐露といい、強引な締め方といい、けっして巧みな句ではない。若書きの拙さは覆うべくもないのだが、歎息まじりにそういうほかないという底知れない諦念には切迫感があり、捨てがたい句である。

 

いきいきと三月生る雲の奥  『百戸の谿』

 

 「三月」という、ある時間を指す言葉が、「生る」という動詞と接続することは、通常の文章では起こりえないはずだ。「三月はじまる」「三月来る」などと比べてみると、「三月生る」の異様さに気づかされる。異様な措辞なのだが、いよいよ春がはじまるという「三月」という季節は、いかにも雲の奥から生まれてくるというにふさわしいと、読んだあとではすとんと胸に落ちる。魔術に掛かったかのような鮮やかさだ。そして、この句を一度体験して以降は、三月の雲を仰ぐたびに、この句が胸を過ぎるようになる。初期の龍太句の傑作と言っていい。

 自然豊かな甲斐の風土を讃えた句という大かたの評価は、けっして間違いではないのだが、やはり今自身が立っている場ではなく「雲の奥」という彼方へとまなざしを向けているところには、龍太の脱出願望が投影されているといえるだろう。喜びの季節は、龍太にとっては、山国の内から沸き起こってくるのではなく、山の彼方からやってくるものであるのだ。

 雲のぎらつきにまだ夏らしい日差の強さは認められつつも、地上はずいぶん秋めいてきているのだ。食卓の秋刀魚が、初秋の感をより高めてくれる。「遠方の雲に暑を置き」も、外連味のある表現だ。「置き」の主語は、四季の運行をつかさどる造化ということになるのだろうが、まるで食卓上の余計なものをちょっと戸棚にでも片づけるかのように、軽い気持ちで作者自身が「暑」を遠くの雲に「置いた」ようにも見えるところに面白みがある。晩夏、暑さが執念深く残っている時には、せめて空想の上でも、こんなことをしてみたくなる。

 

高き燕深き廂に少女冷ゆ   『童眸』

 

 飛躍を意識する龍太の志向は、この句にも明らかだ。大空をたかだかと飛ぶ燕から、軒深くで息をひそめている少女へと、視線ががらりと変わるのを、「高き」「深き」と言葉の上でも明らかに示している。

 蛇笏は『青年俳句とその批評』(厚生閣、昭和十七年)の中で、若手の作風について、次のように苦言を呈している。「現今、想を新たにして制作されるものは、俳壇随所に見かけられるところであるが、いづれもそれが新しきを強い、うまさを自慢げに押し売りするが如き感じを受ける。ところが、無条件で頭を下げさせるようなものを見ることが尠いのである。それは、結局、想が沈滞することなく、余りにも表面化し過ぎることに因るのである」。

 龍太が俳句の世界に打って出るよりも前の言葉であるが、たとえばこの句の「高き」「低き」の対比は、蛇笏に寄って「表面化し過ぎ」ているとして、批判されるかもしれない。それでもこの句においては、少女の孤独をよりくっきりと浮き上がらせるために、「高き」から「深き」への飛躍によって、燕が飛ぶ空とはうって変わって暗く狭い屋内のありようを強調することが求められているのだ。

 

夏の雲湧き人形の唇ひと粒  『麓の人』

 

 これもまた、「夏の雲湧き」から「人形の唇ひと粒」への、大胆な飛躍に賭けた一句である。屋外から屋内へ、極大から極小へ、ほとんど瞬間移動さながらの、イリュージョンめいている。大空へ力強く成長していく入道雲が、おとなしく置かれている静かな人形に変じ、さらには雲の白さが、唇の紅色に変じるのも、眩暈がするような転換だ。いわゆる二物衝撃の作り方で、山口誓子の「夏草に汽罐車の車輪来て止る」や西東三鬼の「昇降機しづかに雷の夜を昇る」といった句に典型的だ。蛇笏は、こうした距離感のあるもの同士をぶつける作り方はしない。新しみを求め、蛇笏直系ではない作風にも学んだからこそ生まれた句といえよう。
 第一句集の『百戸の谿』から、少しずつ、蛇笏の磁場を離れ、龍太独自の句境が拓けてくる。昭和三十七年、父蛇笏を失った第三句集『麓の人』以降、龍太の更なる模索と挑戦がはじまる。

 

【続く】

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