切れ長の眼が しなやかな鎖で繋がれてゐるやうな
女奴隷は、わが花々の水を替え、鏡ごとに影を落して、
秘密の籠る寝台に 純粋な指を惜気もなく触れる。
四方の壁の真中に 一人の女を 彼女が置く、と、
女は、私の夢想の中を 慎ましくさ迷ひながら、
私の視線の間を、宛ら玻璃の板が 太陽の光を横切つて
通るやうに、視線の虚心を紊
さずに 通り過ぎる、
そして純粋の理性の機械を労つて そのままにして。


しゃれてるというか、スタイリッシュというか、男のダンディスムに満ちているではありませんか。2行ずつ脚韻を踏んだ全8行の詩をまるごと引用しましたが、最終行の「純粋の理性の機械」は、詩人ヴァレリー自身のことで、男は純粋な理性であるべきとの、知性派のポーズに見えてかないません。ひどく高尚で難しそうですが、画に描けば、この家の主人が書斎で書き物などの仕事をしているそばで、
この家の主婦である夫人が花瓶の花の水を換えたり、ベッドを整えたりしてくれている。そのいそいそとした姿が鏡に映って、光り輝く女神のように見える。主人は口ひげなど撫でながら、満足げに夢想している。知識階級の男の理想の世界でしょうか。おまけに冒頭の「女奴隷」という言葉も気になります。家事をこなすのは、ヨーロッパの良家では召使すなわち奴隷なのでしょうが、奥さんをそう呼んでみせる、これも少々しらけ気味なディレッタンティスムに感じられます。家長風の知性の詩人ヴァレリー。この詩は夫婦の日常のシーンなのです。ヴァレリー夫人は画家ベルト・モリゾの姪にあたる人です。
ところが最近の研究によれば、ヴァレリーは50代に入る頃、不幸な結果に終ったある危機的な恋愛に遭遇しており、すでに思索の詩人として名声の高かった矜持をずたずたにされて苦しむさまが公表された日記から判明しています。ですから、詩に構成されたシーンが現実をそのままスライドしたものだとは言い切れないところに、詩と詩人の微妙な関係が隠されているのかもしれません。
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