
《三月十日》ひなぎくに八十と九の闇ありぬ
シダラン族には、こんな考えがある。「拾われなかった文字こそが、時間の純粋な痕跡である」。それならば、空もそうかもしれない。雲のように摑めるものではなく、ただそこにあるもの。雲を喰えば、わたしたちは時の流れの一端とひとつになるが、それによって空の全体性、すなわち無限としての時間に無関心になり、本質的な意味において根無し草になる。つまり、「雲喰う者、空を知らずして空に浮く」とは、観念の逆説ではなく、存在そのもののあり方にかかわる問題なのだ。
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