飯田龍太[2]2017.9.1

 

 

  手が見えて父が落葉の山歩く  『麓の人』

 

 龍太の父・蛇笏は昭和三十七年の十月に逝去。その二年余り前の昭和三十五年二月に作られた句である。そのことを知らなくても、どこかこの句の「父」は、すでに冥界にいるような趣がある。
 自解によれば、竹林の中を歩む父を見つけ、「明るい西日を受けた手だけが白々と見えた」ことに発想の契機があったという。とりわけて父の「手」に着目しているのは、やはり手というものが、身体の中で、創造的行為にもっとも深くかかわる部位だからだろう。一般的に、文学における父というものは、腕力、権力の代行者として子の前に立ちふさがるものだが、そうした父の気配は、ここにはない。
 落葉の乾いた色との対照によって浮かび上がる「手」の白さは、力の強さよりもむしろ、精神性の高さを思わせる。とはいえ、ただ父の高い精神性への憧れを表明するばかりで終わっていないのは、「山歩く」の締めくくりのためだ。高い精神性を持った父が、落葉の積もった山で、何をするでもなくぶらぶらと歩きまわっている。創造行為とは、まるでかかわりのない山歩きをしているという展開に、ほのかな可笑しみすら漂うのである。「手が」「父が」は、「手の」「父の」とすれば調べの濁りはなくなるが、あえて口語の「が」を用いているところには、一句の日常性を削がないようにとする配慮がうかがえる。
 親族を句にしようとすると、親愛の情を詠うか、あるいはその逆に反抗を詠うかのどちらかに制限されてしまいがちだが、龍太の句における「父」への思いは、一筋縄にはいかない。もうひとつ、「見えて」の表現についても触れておきたい。作者にとってはあくまで「見えて」いるにすぎず、積極的に「見て」いるわけではない。もちろん、近づいていって、歩みを共にしようとするわけではない。だが、はからずも「見えて」しまった「手」の白々とした美しさ、「山歩き」の親しみ深さは、父の心と、ひとすじの細い糸でつながっていることを伺わせる。父と子の、馴れ合うことなく、かといって疎んじ合うこともない、緊張感のある関係性が想像される。
 龍太の「父」を詠んだ句は、このように、情緒に傾きがちな題材でありながら、作品としての完成度を誇っている。蛇笏と龍太の親子の物語を前提にしなくても、完全に独立した作品世界を持っているのだ。
 龍太自身も、自分の「父」の句が、蛇笏の面影を重ねて詠まれることを、必ずしもよしとはしなかった。「手が見えて」の句と同時期の「露の父碧空に歳いぶかしむ」という句を自解して、龍太は次のように述べている。

 

 俳句は私小説だと言った人がある。私はむしろその「私」的部分をなるべく消す努力をしたいと思っている。たとえばこの「父」の場合でも、たしかに私の父だが、同時に「父一般」に通ずるものがないと作品としては不完全だ。他に通用しないものなら堂々と「露の蛇笏」とすべきだろう。だが、そうなると作品は更に下落する。
(『自選自解飯田龍太句集』)

 

 龍太が「父」を俳句に登場させれば、読者はたちまちそれを「蛇笏」に置き換える。そうした読解が何度も龍太の前に繰り広げられたであろうことは、想像に難くない。しかし、龍太は、あくまで自分の句が「記録」や「日記」の類ではなく、「作品」であることを意識していた。「作品として完全」なものを理想とするからこそ、龍太俳句は、余人の及ばない言葉の緻密さ、繊細さがあるのだ。

 

  亡き父の秋夜濡れたる机拭く  『麓の人』

 

 遺品の机を濡らして拭い、清めている場面だろう。「机」は、まさに父の「手」が、創造的行為を行っていた場所である。そこを拭うという行為は、父の「手」の記憶にみずからの「手」を重ねることで、父の精神と交感しようとする行為に映る。「机」を拭くという何でもないことが、この句においては祈りにも似た敬虔な行いに見えてくるのは、「秋夜」の静けさともあいまって、「手」を介した魂のやりとりが成されているからではないだろうか。
 この句の文体は独特である。たとえば、

 

  亡き父の濡れたる机秋夜拭く

 

などとしてみると、すっきりした表現にはなるだろうが、一句の風趣は台無しになってしまう。
 龍太の句は、「亡き父の」のあとに軽い切れがあり、一句全体を追悼の思いで包みこんでいる。また、「秋夜濡れたる机拭く」とすることで、「濡れたる」が「秋夜」にも「机」にも掛かり、秋夜のしんみりとした情趣を感じさせている。さらには、涙で眼を濡らしているイメージも裏に潜ませているのだ。龍太らしい、こまやかな言葉への配慮である。
 因みに、蛇笏忌は十月三日。龍太の記録に拠れば、夜九時十三分に息を引き取った。自宅の書斎を病床にしての、安らかな最期だったようだ。

 

  一月の瀧いんいんと白馬飼ふ  『麓の人』

 

 私が龍太の作品に強く魅かれるようになったきっかけの一句だ。私はここに、よく龍太俳句に冠される「風土俳句」という評価を超えた何かがある、と感じた。だが、それが何かということは、具体的に指摘することは、容易ではない。あるいは、冬の瀧のイメージと白馬との、言葉の上での衝撃を認めることもできる。あるいは、従来の雅俗の対立を超えた、独自の対立軸で作られていると指摘することもできる。それどころか、この句における、もっと根源的な問題─「白馬」が実体としての動物であるのか、滝飛沫の比喩であるのかを、はっきりさせることすら、出来ないのだ。むしろ、謎めいていて、句意が一つに定まらないところにこそ、龍太の句の真価があると考えたい。
 少し手を加えるだけで、一句のイメージや、言葉の意味するものは、明瞭になる。仮に、この句が、「一月の瀧のほとりに白馬飼ふ」であったとすれば、私は「なるほど、山の中ではこんな風景もあるんだろうな」という共感と納得は得ただろうが、おそらくは、この句について一文字も言葉を費やす気にはならなかったはずだ。曖昧さをなくしてしまうことは、同時に、詩から遠く隔たることを意味しているのだ。

 

  緑陰をよろこびの影すぎしのみ  『麓の人』

 

 この句もまた、曖昧さを持っている。「よろこびの影」がなんであるのか、十七音の言葉は、何も語っていない。はしゃぐ子供たちなのか、新婚の夫婦なのか、どんな人物像を想定してもかまわない。あえて具象的に書かないことで、喜びの感情の迸りという、形のないものを表し得た。写生は、対象の輪郭をくっきりさせるものだが、龍太のこれらの句においては、むしろ輪郭を曖昧にして、形のないものを捉えている。龍太の句は、その意味において、反写生である。蛇笏の死後、龍太は「曖昧さの詩学」というべき独自の方法を身に着けたのではないか。

 

  どの子にも涼しく風の吹く日かな  『麓の人』

 

 一見、曖昧さの微塵もないような句であるが、子供たちはどこにいて、何をしているのか、つまびらかではない。余白の部分が大きいのである。そしてこれ以上余白が拡大してしまうと霧散してしまうという、寸前のところで踏みとどまり、読者の胸中に涼しげな表情をした屈託のない子供たちの顔を揺曳させる。だがしだいにそれも残像として薄れていき、やがては綺麗に消え去ってしまう。これほどに〝喉ごし〟の良い句も珍しいだろう。
 もちろん、龍太一流の技巧の冴えは認められる。まず、「涼しく」「吹く」とさりげなく韻を踏んだ調べの軽快さが、子供たちの溌剌たる生命力を思わせている。また、締めくくりを「吹きにけり」ではなく「吹く日かな」として、涼風はその一瞬のみ吹いたのではなく、その一日がまるごと涼しい日であったとすることで、一句に膨らみが生じている。子供たちが住んでいる地の豊かさや、かかわる人々の優しさまでが感じられるのである。だが、技巧が使われていることに気づかないほどに、平明で簡潔な言葉づかいで、臭みだとか癖とかいったものを持たない句である。
 さきほど掲げた『自選自解』の文章に在ったように、「私」的部分を消していき、普遍性を究めていくと、こうした境地に辿りつくのだろう。この句の舞台が、龍太の住む甲斐の山村である必要は、まるでないのである。鄙の地であっても、都会であってもかまわない。過去を追憶した句と取ってもいいだろうし、今、実際に作者が目にした風景を詠んだとしてもよい。そして、未来においても子供
たちにこんな幸いな一日が訪れることを、祈念した句と見てもよいのだ。

 

  一月の川一月の谷の中  『春の道』

 

 「曖昧さの詩学」の最たるものがこの句ではないだろうか。龍太の句という署名があれば、私たちはこの句の舞台を甲斐の山中に設定するが、この句に書かれた風景自体は、あらゆる国や時代に遍在するものであろう。これ以上に「私」を消した句は、龍太のほかの作品を探してみても、見当たらない。あるいは、その範囲を、俳句の歴史全体に拡大してみても、結果は同じにちがいない。
 はるか高みからの視点で作られているという点では、次の句を先行例としてあげられる。

 

  稲妻や浪もてゆへる秋津洲  蕪村

 

 「秋津洲」、すなわち日本列島を鳥瞰した句であるが、蕪村の句が国誉めの句として豊かな感情を持つのに対して、龍太の句はもっと冷厳で、いわゆる「風土詠」が持っているはずの讃頌の調子に乏しい。それだけに龍太という個人の感慨から隔たり、冬も深まった山河の情景として、誰しもが持っている記憶に、直に結びついていく。
 蛇笏の活躍した時代は、「ホトトギス」という俳壇の中心となる巨大な結社があり、高浜虚子という圧倒的な権威を持つ選者がいた。龍太の時代には、俳句観が多様化し、句の価値を決定する絶対的な存在はいなくなった。それは、経験や美意識や教養もさまざまな、顔の見えない無数の読者を相手にしなくてはならなくなったことを意味する。龍太の句の曖昧さ─どんな読者にも対応できる余白を残すこと─は、その意味で、戦略だったともいえる。

(続く)

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