2019年 第10回 田中裕明賞

選考結果

該当句集なし

 

選考委員の言葉

小川軽舟

 田中裕明賞が十年の節目を迎えた。田中裕明賞の十年は、平成の最後の十年に当たる。長く大きく波打った昭和の圧倒的な存在感の前で、平成という時代も、そして平成の俳句も、なかなかその姿が見えなかったと思う。ようやく平成俳句の胎動が感じられるようになったのは、田中裕明賞の受賞作、応募作によってではなかったかと私は思っている。
 第一回の選考時、私はまだ四十代だった。この賞の受賞資格者のほんの少し先輩といった位置にいたのである。ところが次第に、田中裕明賞世代と私の間に時代の懸隔があることに気づかされた。平成の間に日本と日本人は変貌したのだ。そのような時代背景を背負って応募された句集は、受賞の有無にかかわらず、内容においても、表現方法においても、俳句の新しい風景を私に見せてくれた。
 今回が受賞作なしとなったことは残念だ。俳句の未踏の領域を切り拓くという点で過去の受賞作の水準に一歩及ばなかったが、それぞれに魅力的な個性が発揮されて、これからの成長が楽しみな若手たちに出会えた。
 一位に推した池田瑠那の『金輪際』は、世界に対する真っ直ぐな探究心が凜々しい。「君逝きし世界に五月来たりけり」「葉桜や鋲に閉ぢたる検死創」、交通事故で夫を喪ってなお濁ることのないその眼差しには神々しささえ感じた。二位に推した日下野由季の『馥郁』はやわらかな情感が魅力的だ。「寒禽の思ひ切るときかがやけり」「今日の月思ふところに上がりけり」のような主情性の強さを更に発揮してもらえたらと思う。三位としたのは岡田一実の『記憶における沼とその他の在処』。「夜を船のよぎる音聞く桜かな」「蠛蠓の芯を残さず失せにけり」、切字の古格を生かしつつ、俳句の言葉を通して見えないものまで見せようとする意欲を感じた。

 

岸本尚毅

 当たり前のことだが、俳句は短い言葉の意味(そして音韻なども)を手掛かりに、読者が想像力を働かせて読みを構築する文芸である。読者の読みがどこまで深まるかが勝負である。
『記憶における沼とその他の在処』の「声やがて嗚咽や林檎手に錆びて」「人形に直描きの目や芋嵐」「光線のうちに世の中夜の仔猫」などは必ずしも口当たりのよい句ではないが、一語一語を辿るときっちりと景が浮かぶ。その景はかなり深いところで像を結び、不用意に言葉に置き換え難い「詩情」を持つ。そのあたりのキャパシティを評価し、第一位に推した。
『金輪際』については、ご夫君の急逝にさいの句群に注目した。的確な表現(言葉遣いや季題の効果など)で状況や心情を伝え得た点を評価し、第二位に推した。
このほか「雪だるま痩せず小さくなりゆけり」(『尺蠖の道』)、「切れてまた豆名月に次の雲」(『馥郁』)、「象の声ひびく枯野にまた誰か」(『夜蟻』)、「ゴーヤ爆ぜて独居老人留守の家」(『景色』)、「一投の土器梅雨が明けさうに」(『鮫色』)、「竹節虫の人嫌ひ秋深くなる」(『筆まかせ』)といった好句を見出すことが出来た。
他方、たとえば「凍蝶といふ肝胆の凍てごこち」(『記憶における沼とその他の在処』)、「綿虫の青きいのちを掬ひけり」(『馥郁』)、「しやぼん玉地球の色の定まらず」(『尺蠖の道』)といった句は「気の利いた言い回し」が使われているが、しょせん底の浅い面白さでしかない。この種の「書き急ぎ」は読者の読みの深まりを妨げるものでしかない。この種の言い回しが俳壇に流行るとすれば、それは作者でなく、褒める人の責任である。次回以降の選考委員の皆様には、俳壇に流布されがちな「一見上手そうな句」を安易に褒めないことを、強くお願いする。

 

津川絵理子

 一位に推した『鮫色』は、作者の実感を伴った手応えのある句が多かった。奇を衒ったところがなく、好感が持てた。粗削りな面はあるが、それもこの句集の個性となっている。旅吟の連作では、単なる観光俳句に終わらず、旅を通して作者は内なる自分自身を掴み取ろうとしているのが素晴らしい。一方、安易な機智の句、季語の使い方等問題点もあった。内に籠る傾向があるので、ときには拘りを捨てることも必要だろう。
 二位に推した『尺蠖の道』は、若々しい句が多い。留学や結婚、親になること、など人生の大きな出来事を、気負うことなくさらりと表現している。後半の方が俳句は上手いのだが、前半の句に私は新鮮味を感じた。
 三位に推した『金輪際』は硬質の手触りが魅力。省略が効いた句が多く、爽快である。また、夫君を亡くされた頃の作品群は心を打つ。全体的に生命力を感じる句集だが、作品にばらつきがあるのは気になった。
 今回は力のある句集が多かったし、纏まっていたと思う。ただ、程よく纏まり過ぎの感はあった。該当作無しは残念ではあるが、最終的に納得できた。

 

四ツ谷龍

 今回応募の八冊は、俳句に対していろいろな試みを行っていたが、過去の受賞作九冊と比べると水準的に物足りないところが目についた。
 健闘を見せた句集を三冊選び、沼尾将之『鮫色』を一位、岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を二位、堀切克洋『尺蠖の道』を三位としたが、この三冊は視点によって優劣がどのようにも付けられるので、実質的に同順位という考えである。
 沼尾句集は、成功した句では自分の体重がよく載っていて、実感を素直に俳句に盛りこんでいるところに好印象を持てた。しかし一方で手拍子の安易な表現に頼る句も見られ、出来不出来の落差が激しい。
  式部の実枝垂るる方へ色集め
岡田句集は、「二つの世界の境界を描く」といったテーマを追求していて、自分のフィールドを持っているところは良い。しかし理屈で風景をこしらえたり、実感の乏しい大げさな表現を振り回したりするところも多々見られた。
  蠛蠓の芯を残さず失せにけり
 堀切句集は、表現がこなれているという意味では優れており、安心して読める。しかしそのうまさゆえに、表現しないで踏みとどまったほうが良いところまで言いつくしてしまい、作者が自分で種明かししているような興趣をそぐ面も見られた。
  背の高き父に抱かれ雛の市
各委員がどうしても推したい句集はあるかの意思を確認し合ったが、そこまで推薦できる句集はないということで意見が一致したため、該当なしという結論に至った。今の選考メンバーによる最終の審査であり、できれば受賞作を出したいという気持ちはあったが、過去に内容的に優れていながら二位、三位に終わり受賞を逃してきた句集も数々あったことを思うと、安易に妥協することはできないというのが、審査員の総意であったと言えよう。

 

選考経過報告

 第10回田中裕明賞の選考会は、4月29日の午後1時より5時半にわたってふらんす堂において行われました。
 今回の応募句集は8冊、選考委員は従来通り、良いと思われるものから3点、2点、1点の点数をつけてもらいました。
 その結果、池田瑠那句集『金輪際』6点、岡田一実句集『記憶における沼とその他の在処』6点、沼尾将之句集『鮫色』6点、堀切克洋句集『尺蠖の道』4点、日下野由季句集『馥郁』2点という結果となりました。
 今回は、最高点の6点をとった句集が3冊あり評価がわかれました。その3冊のなかで句集『鮫色』はふたりの選考委員が3点をつけ、『金輪際』『記憶における沼とその他の在処』もそれぞれの選者によって3点を獲得しましたが、論議をしていく過程で、選者の方それぞれが最高点をつけた句集について、ほかを落として受賞句集としてつよく押すにはやや力不足なのではないか、という結論にいたり、今回は「受賞作なし」という結果になりました。
 今回論議の中心になったのは、「田中裕明賞」の水準をどこに置くか、ということでした。その年ごとの句集で評価して決めるのか、あるいは、過去の句集に照らし合わせて決めるか、ということです。そして、やはりこれまでの受賞できなかった優れた句集を鑑み、今回は過去の水準に足りずということで受賞作なし、ということになりました。

 

ふらんす堂 山岡喜美子

 

第十回 田中裕明賞候補作品

○『夜蟻』(赤野四羽/2018年7月25日/邑書林)
○『記憶における沼とその他の在処』(岡田一実/2018年8月30日/青磁社)
○『金輪際』(池田瑠那/2018年9月8日/ふらんす堂)
○『馥郁』(日下野由季/2018年9月25日/ふらんす堂)
○『尺蠖の道』(堀切克洋/2018年10月1日/文學の森)
○『鮫色』(沼尾将之/2018年10月29日/ふらんす堂)
○『景色』(佐藤りえ/2018年11月19日/六花書林)
○『筆まかせ』(伊藤隆/2018年11月27日/ふらんす堂)

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