v 2025年 第16回田中裕明賞

2025年 第16回 田中裕明賞

受賞者の言葉

藤井あかり(ふじい あかり)

受賞者

1980年 神奈川県生まれ
2008年 「椋」入会 石田郷子に師事
2010年 第1回椋年間賞
2015年 第5回北斗賞 句集『封緘』(文學の森)上梓
2016年 『封緘』により第39回俳人協会新人賞

 6歳になった息子は、図書館で本を選ぶ時間が大好き。ずっと私の貸出券で借りてきたが、それでは事足りなくなってきたため、彼名義の券を作り、早速、最近お気に入りの『あおのじかん』を借りた。「これ僕の券で借りたんだよね」と誇らしそうな彼の手を引いて夕暮れの館外に出たところで、マナーモードにしていた携帯電話の着信に気付いた。田中裕明賞の受賞の報せだった。もし、彼が長じていつか『メゾティント』を読む日が来るとしたら、そのとき彼は何を思うだろう。予期せぬ報せを受け、今はまだそんなことしか考えられないけれど、今の私にはそんなことが一番大切である気もしている。
 この句集に関わってくださった全ての方々に深く感謝いたします。

選考委員の言葉

佐藤郁良

 今回の対象作は6篇と、例年に比べてやや少なめであった。中でも、青木ともじ『みなみのうを座』と鈴木総史『氷湖いま』は、私がそれぞれ序文と跋文を寄せていることから、慣例に従って選外としたため、残る4篇の中から3篇を選ぶこととなった。
 私が一席に推したのは、藤井あかり『メゾティント』である。センシティブな叙情に満ちた句集で、「春惜む自らを木と思ふまで」「紙が燃え字が燃えてをり春の暮」などに見られる独特の感性に強く惹かれた。「さよならのさの響きもて青葉風」「喪の顔を照らし出したる冷蔵庫」など、孤独感や死をテーマにした句が多く、全体の印象は暗いのだが、溢れ出る詩情は抜群のものがあった。「君」や「我」などの人称代名詞の多用はやや気になったが、句が甘くなっていないのは作者の力量ゆえであろう。他の三人の選考委員も一席に推しており、議論の余地なく田中裕明賞に決まった。
二席には、黒岩徳将『渦』を推した。「自己採点続く蜜柑を握りしまま」など、現代的で幅広い素材を拾ってくる力に感心した。「スキーより戻り豆苗伸びてをり」など、日常のさもなき発見の中におかしみを感じさせる句にも好感を持った。一方では、「宮大工ロープで汗を拭ひけり」のような正統派の写生句もあって、作者の確かな実力を感じる句集であった。選考委員全員が二席に推す結果となって、裕明賞には一歩及ばなかったが、自信を持って今後の句作に臨んでいただきたいと思う。
 三席には、常原拓『王国の名』を推した。「数式をきれいと思ふ緑夜かな」「車座に天文学者ゐて涼し」などは、素材も新鮮な上、対象把握の感覚の良さが現れていて、好ましく感じられた。一方で、「レコードに針落としたり秋の水」のように取り合わせの季語の距離感に疑問が残る句や、「ちと痩せし犬をえらばば桜桃忌」など文法間違いかと思われる句が散見されたのは残念であった。
 慣例によって選外としたが、『みなみのうを座』『氷湖いま』の2篇は、三席に相当する佳品であったと思う。どちらも自身の置かれた環境に根ざした句に力があり、淡い叙情が感じられて良い句集であったが、受賞作『メゾティント』の強い個性やインパクトにはいささか及ばなかったのではないか。千春『こころ』については、川柳と俳句の境目を狙っているのかと思われたが、成功しかねているように感じ、評価し切れなかった。応募された皆さんのますますの活躍に期待したい。

 

関 悦史

 藤井あかり『メゾティント』が卓絶していた。
 病、別離など実体験に由来すると思しい題材をも多く含むが、それらを五七五に移して能事畢れりとするのではなく、前書を最小限にとどめられ、章立ても排された句集は詩的言語として独立した時空を再構築しようとする強い意志に貫かれ、厳しい緊張に満ちていた。
 《こめかみの痛む薄氷割るるごと》《春惜む自らを木と思ふまで》のように「薄氷」や「木」とたがいに浸透しあいながらも、おのれの身体は自然のなかに溶け入って安らぐことはなく、険しく緊張のなかにとどめ置かれたままであり、その相克は《君からはここが陽炎ひてゐるのか》《あなたには手を汚させぬ泉かな》と、相聞句にまでそのまま及ぶ。
 その詩的リアリティの探求から否応なしにうまれる自己変容の奇怪とすら呼べる美は、さながらゴシックロマンスのそれを思わせる。
 《我の子が傷つけし子の夏帽子》《喪の顔を照らし出したる冷蔵庫》など心のいたみの表現も、有季定型という基底材に鮮烈に刻み込む態のもので、その点、銅版画のなかでも版全体を傷で満たすことで諧調表現を生じさせる技法メゾティントの名はこの句集の様式、方法にたしかにふさわしい。
 良い句を作ることを最終目標地点とするのではなく、古典的悲劇作品の奥にのみある荒野を見据えてそこへ身を倒れ込ませ、そのさまを何の陶酔もなくおのれで見届けつくす、そうした営為をまのあたりにさせられた思いがして、いささか粛然とした。
 配点としては選考委員全員が一位に推し、初の満票での授賞となった。他の候補作と比べ相対的に優れていたというよりも、他と明確に一線を画している印象が強かった。
 私が(というよりこれも全員が揃ってしまっていたのだが)2位に推した黒岩徳将『渦』は、句をなす言葉が対象を過不足なく描き切ることでその対象に密着しているような、余白や透明感といった要素に背を向けた厚塗りの作風であり、生身の存在感や生活感に富んでいる。俳言性と題材の豊かさで今回際だっていた。
 《バンズよりはみ出す肉やサングラス》《八の字に糞まる犬や豊の秋》、あるいは実体性に逆から触れたかたちの《白薔薇や回転ドアに触れず出る》など、感情よりも感覚において対象に腹から共感するというスタンスが土台をなし、我の強さといったものはない。俗な要素をも次々に描いていくことで、かえって真面目なキャラクターが浮かび上がってくる、熱量のある句集となっていた。
 3位とした青木ともじ『みなみのうを座』は些細な破局に何か決定的な喪失感がまつわる《蛤つゆの殻をつまめば割れにけり》や、《落とされし手套を皆が見て過ぐる》など、普段気にとまりそうにないものまで含めたさまざまな物への気づかいが句集にゆきわたっていて、《友ひとり失くして夢にゐる鯨》《ボートから見えない小屋にゐる祖母よ》のように、おのれや親しい人たちもその配慮のなかにある。
 ただし、いかにも若者が向きあうことになりそうな局面を描く場合でも、《吊り揚げて船底眩し卒業期》《西日中崖の崩れて崖残る》《入試監督きれいなこゑではじまりぬ》《飾らるる団扇にたまる埃かな》など、叙情性の奥に固い物の感触が沈み、それが重石を成して、甘さを抑えているような句も少なからずあり、そこに惹かれた。
 常原拓『王国の名』は《七種を王国の名にして遊ぶ》という標題句に見られるとおり、外界の事物をミニチュアの模型や博物学的図像のようなものへと変えて自室に集め、愛でているような余裕派的なところがあり、端然としているとみえてよそよそしくはない感触に好感を持った。《早乙女と夜の話をしてをりぬ》《ふたりして書斎に遊ぶ野分かな》《馬冷す天文台のよく見えて》などには一度玩具化した対象から想像力によって回復し、抽出した遙かさが宿っている気がする。
 とはいうもののこうした手続きを過去の名句にまで及ぼした《運慶は寡作なりしも草紅葉》《近海に鰡の跳ねたる早苗かな》《六月の女と沖を見てをりぬ》はそれぞれプレテクストとなった田中裕明、永田耕衣、石田波郷の句の矮小化に見えかねず、必ずしもプラスに働いてはいないようだ。
 鈴木総史『氷湖いま』は《氷湖いま雪のさざなみ立ちにけり》《みづうみに輪郭のある初氷》《虫籠を湖の暗さの物置より》のような湖を直接モチーフにしたものに限らず、冷ややかにしずまった句が基調をなしていた。《料亭に時計すくなし白障子》《短日の家まで着かぬバスばかり》《終電の手すりつめたき聖夜かな》のような何ものかの不足や欠落を起点にした句も、頑なな不遇意識などには帰着せず叙情を湛えている。
 ただし俳句臭い言い回しや見立てもあちこちに見られ(たとえば《みづうみは櫂を拒まずえごの花》の「拒まず」等)、その昇華は今後の課題か。
 千春『こころ』は川柳句集での応募。ナンセンスな光景を平叙した句よりも《つぶつぶがつぶつぶを産むご自由に》《わたくしの脚ひらかせる桜だな》《発狂しました切符を下さい》などの作者が四方八方に啖呵を切っている態の句の印象が強く、「私」の言説性が目立つ点、川柳におけるロマン主義のひとつの展開と取るべきなのかもしれないのだが、ナンセンスさが世界の側ではなく語り手側に集約されるため、結果的に苦しげに見え、面白みを解しかねる句が少なくなかった。


 

高田正子

 今年の候補作は6冊。例年より冊数は少ないが、個性が際立っていて粒選りの印象が強かった。じっくりと楽しませていただいた。 
選考に際しては句集を何度も読み返すことになるが、いちばん初めは「選ぶ」という観点は一切持たず、ひとりの読者としてページを繰り、佇まいといおうか、立ち昇ってくる香りのようなものを味わうことにしている。だがその時点で既に『メゾティント』と『渦』の陰と日向のようなくっきりとした明暗に心惹かれ、『みなみのうを座』ののびやかさを好もしく思う自分が居た。再読以降はその所感に裏付けを与える作業となるのだが、その過程で迷いが生じることはなく、自ずと順位も決まったのだった。
 1位には『メゾティント』を推した。この句集には章立てが無い。だが句が緻密に配列されており、その仕掛けを読み解く心持ちで追いかけてゆくと、どこまでも読み進めることができるのだった。例えば巻頭に置かれた2句〈扉を叩くための拳や春北風〉と〈藪椿静かとつぶやけば響く〉P7は音の大小で対照をなしていよう。音のつながりで次のページの鍵盤で始まる1句目〈鍵盤のかたへに忘れ春手套〉へ続き、鍵盤を指で沈めて音を出すイメージが次の〈春寒の便せんに字を沈めゆく〉へ繋がってゆく。そう読んでみると、沈められた「字」が何らかの音を出し始める。字が連なり文となりゆくと、そこには新しい旋律が生まれてくる……といった具合に。
 句集を読みながら謎解きめいたことをしたのは初めてかもしれない。このような緻密な配置がなされているのだから、むろん編年体ではないだろう。著者は自らの作品の一片一片で新しい物語を紡ごうとしている――と思ったが、「婚約もしくは結婚」「出産」「子育て」に対応する前書の付された句もこの順に置かれているのだ。ということは、虚構の形をとりながらも、並行して著者自身の人生が走っていると考えてよいのだろう。
 著者が何か苦しみを抱えながら子育てをなさっている様子も汲みとれ、前述の一片一片が「一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である」という三橋鷹女のことばと重なりもした。剥脱に留まらず、剥した鱗を緻密にコラージュしたかのような、まさにメゾティントなる読後感の一集であった。
 『渦』は2位としたが、読後感は『メゾティント』よりむしろ良好ともいえる。ナイーブな青年の横顔がときにちらつくが、総じて健やか。まっすぐな棒で貫くような力強さが爽快だった。
〈耳打ちの蛇左右からマチュピチュと〉は聴覚、〈風船に透けて風船売昏し〉は視覚でありつつ、繊細で感覚的。一方で〈どれがどの家の道具や芋煮会〉〈賀状書く番地の途中からは見て〉〈炒飯の海老の弾力夏始まる〉からは健やかな興味関心を感じさせられる。
 面白かったのは『メゾティント』所収の句と似た構図の句があったことだ。例えば、
  渦:間取図をスワイプいわし雲流れ
  メ:夏雲にいくたび翳るカトラリー
    花にやや遅れて花人の翳る
また、
  渦:蝌蚪の頭が一つ日輪覆ひたる
  メ:一枚の葉の遮れる冬日かな
 構図は似ているが、スワイプと翳る、覆ふと遮る、と選ばれた語が違えば醸される雰囲気も当然違って、それぞれが作家として既に屹立していることを確信したのであった。
 3位の『みなみのうを座』は著者の特殊な任務とそれによって生まれる生活習慣が編み出した一集ともいえる。裕明賞へのノミネート句集をこれまで6年間読んできたわけだが、生身の自分は出さず、むしろ虚構を構築する高度な知的芸術を良しとする傾向を感じなくもない。むろん事実と真実は異なるものであり、緻密な嘘はすこぶる魅力的だ。が、そうした中にあって、この句集には(ご本人を存じ上げているわけでもないのに)「この人の句ならばこうした読み取りが可能ではないか」という、ある意味迂闊な発言も許容してくれそうなおおらかさがあって、読んでいて純粋に楽しかった。〈島どこも歩いてゆけて雲の峰〉は深海に潜って仕事をする人の句だと思うと、島はいいなあ、自分の脚だけでどこでも行けてしまうのだから、と読めようし、〈ポイントはすべて使つて天高し〉は明日からまた海へ出るから、今日中に使い切ってしまわなければ、と読んでもよさそうだ。こんな感じに楽しい句がたくさんあったが、中でも「感動」したのは〈皿に入れポン酢あかるき良夜かな〉である。良夜で納めるのは他愛無い気もするが、ポン酢はたしかにあかるい。ポン酢の消費量が多いわが家ゆえ、ほぼ毎日「あかるい」と呟いてしまいそうである。

 

 

髙柳克弘

 第1位に藤井あかり『メゾティント』を推した。序盤の「君からはここが陽炎ひてゐるのか」「残雪を隔ててならば向き合へる」に他者とのわかりあえなさをテーマとして示し、一巻の中に「君」と「我」をしばしば登場させつつ、二人の関係性を通してそのテーマを書ききっている。散文的なテーマを俳句で表すことには賛否両論あるだろうが、この句集はその試みの希少な成功例と見た。明確なメッセージ性を備えた『メゾティント』は、俳句の可能性を拓く句集に与えられる田中裕明賞にふさわしいといえる。わかりあえなさというテーマにもかかわってくるが、新鮮だったのは、自己を強く打ち出していること。「秋蝶の映りたる気がして水面」は、「気がして」とあるので、秋蝶そのものよりも作者の内面が浮上してくる。「胸指して此処と言ひけり青嵐」は、危うさを抱えた自己が存在を確かめようとしている切なさがある。自己を超克するところから詩が始まるという考えもあろうが、そのような「軽み」はこの作者の眼中にはないのであろう。自己に拘ることで生まれる迫力と重量感に圧倒された。
 第2位には黒岩徳将『渦』を推した。伝統的な俳句の方法である「写生」が、現代においてもなお秀句を生む有効な手法であることを証明してみせた句集である。「宿の鍵放りて布団凹みたる」は「凹みたる」まで突き詰めたところに写生を感じた。「炒飯の海老の弾力夏始まる」はあえて字余りにしたことで、中華鍋を熱する炎さながらの夏を予感させる。「冬麗や泣かれて抱けば腹突かれ」は、いかにも現代的な相聞句だ。詩であるかどうかというコーナーぎりぎりを攻める作風で、ときにコースアウトしている失敗作も見られたが、この句集の場合、失敗作も魅力的であるという不思議な特質を持っている。
 第3位には常原拓『王国の名』を選んだ。こちらも写生に基づいた句集だが、『渦』とはまた異なる独自のふくよかさが身上だ。「兜虫男の喉のかたちして」「抓まれて脚伸ばしたるばつたかな」「探梅や大八車さかしまに」などには、写生を通して可笑しみの世界が拓けていた。
以下、候補となった句集から、ひとつずつ好きな句を引く(刊行順)。「卒業や風は齢を持たずして」(鈴木総史句集『氷湖いま』)、「つぶつぶがつぶつぶを産むご自由に」(千春句集『こころ』)、「花火まで届かぬ声をあげにけり」(青木ともじ句集『みなみのうを座』)。

 

選考経過報告

 第16回田中裕明賞の選考会は、5月4日(日)午後2時よりふらんす堂にて行われました。
 今回の応募句集は全部で6冊。
 選考委員は、あらかじめ良いと思われるものに3点、2点、1点をつけてもらい上位3位までを決めてもらいます。
 その結果、藤井あかり句集『メゾティント』12点、黒岩徳将句集『渦』8点、常原拓句集『王国の名』2点、青木ともじ句集『みなみのうを座』2点ということなりました。
 なお、佐藤郁良選考委員は、句集『みなみのうを座』と鈴木総史句集『氷湖いま』については、編集に関わったということで、点をいれることを辞退されたことを記しておきます。
 選考については、前回にならって、点の入らなかった句集より選評をするかたちをとり、一冊ずつ丁寧に評する選考会となりました。
 賞の決定については、選考委員全員より3点を獲得した句集『メゾティント』にということに選考委員どなたも異存はなく、句集『メゾティント』が第16回田中裕明賞に決定しました。
 今回の応募句集の冊数は多くはなかったのですが、どの句集も質の高い力のあるものであったという評価もあり、選考については、冊子「第16回田中裕明賞」に選考についてつぶさに記されてありますので、是非それを読んでいただきたいと思います。

 

ふらんす堂 山岡喜美子

 

第16回 田中裕明賞候補作品

○常原拓句集『王国の名』(2024年2月29日 青磁社)
○鈴木総史句集『氷湖いま』(2024年3月3日 ふらんす堂)
○千春句集『こころ』(2024年4月15日 港の人)
○黒岩徳将句集『渦』(2024年5月5日 港の人)
○藤井あかり句集『メゾティント』(2024年9月30日 ふらんす堂)
○青木ともじ句集『みなみのうを座』(2024年11月22日 東京四季出版)