受賞者の言葉
板倉ケンタ(いたくら けんた)

1999年 東京生。
2014年 開成中学校俳句部にて作句開始。
2017年 第九回石田波郷新人賞。
2018年 第六回俳句四季新人賞。
2020年 第八回星野立子新人賞。
現 在 「群青」「南風」所属。
田中裕明賞は、私にとって遠く屹立した賞という印象だ。それは、もちろん田中裕明という特別な俳人の名を冠しているということもあるが、この賞が今まで厳しく作品と向き合い優れた俳人を選び抜いてきたことが大きい。
私は高校時代に『新撰21』に触れ、そこに収録された、どこか暗い諦めを湛えた厳しくも美しい作品に胸を掴まれた。現「南風」主宰、村上鞆彦に惚れたのもその時であったし、鴇田智哉、関悦史、髙柳克弘など、挙げればきりがないが今見ても気高い俳人が並んでいると思う。裕明賞はこうした俳人が初期の受賞者に名を連ねており、遠く仰ぎ見るような賞であった。
であるから、今回その賞の受賞者の末席に加わることになったのは、自分でも不思議な気持ちがする。もっとあけすけな言葉を使えば、私なんかが頂ける賞で良かったのだろうか、と思わないところもない。
それほど裕明賞は回を重ねたのだろうけれど、もうひとつ訳があるとするとそれは「人間力」であろうと思う。先ほど”暗い諦め”と書いたが、心のなかでこうした類いの感情の生まれる場所が、私にはまだ耕されていない。もっと手前の、美しいとか、哀しいとか、怖いとか、そういう感情で俳句を書いている。その外の心の部分が耕されていることを「人間力」と言うのが正確かはわからないが、裕明賞受賞者に名前を連ねることに違和感がなくなるには、その部分が大切なように直感する。
順番が前後したが、この度『一花一虫』を選び取ってくださった選考委員の先生方、これまで育ててくださった櫂未知子先生、佐藤郁良先生、村上鞆彦先生、津川絵理子先生、句友の皆様、お世話になったふらんす堂様に感謝申し上げる。
選考委員の言葉
佐藤郁良
今回の対象作は6篇、そのうち『一花一虫』(板倉ケンタ)は私が跋文を寄せていることから、慣例に従って選外としたため、残る5篇の中から3篇を選ぶこととなった。5篇それぞれに異なった魅力がある反面、気になる点もそれぞれあって、どれを一席に選ぶかは相当悩ましかった。
そのような中で、私が一席に推したのは『パブリック』(西生ゆかり)である。現代的な素材が多くポップな印象ながら、しっかり読み応えのある句集であった。とりわけ、「ソフトクリーム舐むれば個人的な崖」のような、独特のコロケーションを用いた句に強く惹かれた。「等身大パネルのやうな新社員」などのユニークな直喩にも魅力を感じたものの、直喩を用いた句が二十句以上あったのはいささか多すぎたのではないか。句の数ももう少し絞ってよいように思われた。
二席には、『漱口』(若林哲哉)を推した。「うすく影秋風鈴のあさがほに」など目の利いた写生句、「麻服の肩に鞄の紐の痕」などトリビアルな発見の句に、安定感と確かな実力を感じた。一方で、ただごとすれすれの句や、取り合わせの距離感に疑問を感じる句もあって、惜しく思われた。
三席には、『グッドタイム』(楠本奇蹄)を推した。非常に意欲的な句集で、特に「振り返る翡翠の半分が雨」のように対象を感覚的に把握した句に、作者独自の視点を感じ好感を持った。ただ、難解な句が少なからずあり、また馴染みの薄い外来語を用いた句も多くあって、読者としては戸惑いを覚える部分もあった。
慣例によって選外としたが、『一花一虫』(板倉ケンタ)が他の選考委員から高い評価を得て田中裕明賞に選ばれたのは、当然の結果であったと思う。今回の応募作品の中で、最も吟行句の割合が多かったのは『一花一虫』であろう。「叢芒倒れだふれに野火移る」のように、現場に足を運び、自らの眼で見たものを詠んだ力強さが『一花一虫』にはあった。中には難解な句もあるという指摘も選考会では出たが、モノに立脚する確かさがそれを補って余りあると評価している。作者には、この受賞をきっかけにますます飛躍してくれることを期待したい。
『明日の鞄』(遠藤容代)、『帰る場所』(竹岡佐緒理)も、それぞれに魅力のある佳品であったと思う。『明日の鞄』では、「春の水見て懐かしくなりにけり」のようなてらいのない叙情に好感を持ったが、不用意に感情を直叙している句が多い点が少し気になった。『帰る場所』は全体的に向日性のある作風で、「学校に来ない子と居る秋の川」など教員生活を等身大に詠んだ句群に強く共感した一方、ただごとに終始してしまっている句が散見されたのが少し残念であった。応募された皆さんの今後のますますの活躍に期待している。
関 悦史
それが俳句の形をとるにせよ、他の形式やジャンルを選ぶにせよ、表現しなければならない衝動に作家が突き動かされており、それが外界の何ごとかと出会い、ぶつかり、句を成してゆく。板倉ケンタ『一花一虫』はそうしたいとなみのみが持つ緊張感が漂っている点でインパクトが強く、一位とした。
荒廃、衰退の相があらわな題材の〈はだれ野やあれはバブルの頃の文字〉〈芥菜やリゾートといふ名が残り〉〈今もある硬くて寒いとしまえん〉や、少子化の句と捉えられなくもない〈ゐなくなる子ども日永の水のおと〉、さらにはコロナ禍を想起させる〈鳥交るえやみ籠もりの町なかを〉などに見られる滅びの世界への傾きは、ひと気のない閑静な場所に安らう廃墟趣味ではないし、サブカル的なゴシック趣味のような、既成の回路にとりこむ態の耽美化とも位相を異にし、イロニーの要素もありはするものの、不吉なものを不吉なものとして現実の世界に置いたまま、言葉によって美に転じようとする闘争の場としてあらわれている。そこでは季語は作者の心理を担いあらわす符号のようなものとしてではなく、荒んだ題材それぞれの表面をなまなましく露呈させる異化作用のために配される。単に時事を時事として句にとりこめばよいとしているわけではなく、荒んだ世界を生き延びるためにそれらをそのまま美に転じなければならないので。こうした言い方をすると、三面記事的な題材を華麗な修辞で現実から簒奪し、美しい仮構の廃墟とした三島由紀夫の小説などをあるいは連想されかねないのだが、板倉ケンタの句が目指しているのは、むしろ廃墟からの、なまなましいものの奪還であろう。句が或る象徴性を帯びた審美的なものとなりおおせることと、そこに絶えずなまなましさを取り戻しつづけることとの相克が緊張感の正体なのだ。そうした衝動の生成する場として、作者の存在感が確かに感じられた。〈絶えず強光やはらかな蟻の中までも〉〈なきがらの鹿より洟や春の山〉の、精確であるがゆえに凶暴な表現は、技法のみを洗練させる「俳句のための俳句」のマニエリスム性を突き破っている。集中〈秋麗の馬の血よ馬走らしむ〉の「馬」のような同語反復の句が異様に多いことが気になったが、マニエリスム的なものの重力との苦闘の痕跡であろうか。
二位とした遠藤容代『明日の鞄』は〈剥製は定位置のまま文化祭〉のような、静物や風景を中心にしたかに見える落ち着いた句にも、その視点に必ず人のいとなみや感情へと突き抜けるところがあり、それが寂しさとも幸福感とも分別しがたい心のありように柔らかに触れているところに魅力があった。逆に人のいとなみや感情をじかに取り込んだ句、〈冬の星ゴッホの帰り道照らす〉〈雨のプールずっと返却されぬ図書〉〈一人来て虎を撮りたる暮の秋〉などでは、そのやや遠くまで及ぶ視線が大きな情的要素を余裕をもってたたえる容器ともなり、詩情を生んでいた。
三位とした竹岡佐緒理『帰る場所』は〈学校に来ない子と居る秋の川〉と教職についているらしい女性が結婚し、〈新婚のころの梅酒を飲み干しぬ〉と相応の月日が経つまでの経過が漠然と浮かびあがる構成になっていて、文体はプリミティブ・アート風ともいえそうな素朴な明るさと活力を持つが、ヒリヒリしたり押しつけがましくなったりはしない詠み方の底に、社会人としての内面にまで及ぶ管理化を、所与のものとして受け流すしたたかさもどこか感じられた。ただ取り合わせ的な句に時候・天文の季語が用いられることが少なくなく、句柄の明るさが作りの大まかさと表裏一体のものとして句集のトーンを作っていたようにも思う。
西生ゆかり『パブリック』は比喩表現の使い方が独特だが、その結果として句が、言語化しがたい情動や欲望を担うオブジェにまでは成りきっておらず、素材がそのまま投げ出されていて、内容がさほど豊かでない混沌に終わっているケースが散見されたように思う。〈胡瓜サンド人は飛べないから走る〉は比較的成功している句と見られるが、ここでの「胡瓜サンド」は「人は飛べないから走る」という事態に対し、意外なイメージをぶつけて得られる新鮮さによって、両者に隠された同型の構造を一気に認識させるという通常の喩の働きはしていない。屋上屋を架すように、無縁なイメージである「胡瓜サンド」をのしかからせることで句にポエジーを得させようとしている。つまり作者の思い入れが詩因となっているので、第一印象に反し、句集全体として意外性はあまり感じられなかった。
若林哲哉『漱口』は清潔な表現による叙情性の作と見えはするものの、世界と自己をともどもに受容し、安らぐ態の叙情は中心になっていない。〈給油口開くや四角く雪の浮く〉〈麻服の肩に鞄の紐の痕〉などトリビアリズムに寄った句が一定の新鮮味を感じさせることが多かった。世界と自己との接触面のみを、深みを排して収集してゆく作風であり、読後には、作者が「居る」という感覚のみが残る。そしてそれが事件と呼ぶほどの何ごとかになることは目指されていない。読者の目はインスタグラムを見るようにこの句集の上を通っていくことになる。
楠本奇蹄『グッドタイム』は記憶や心象を掘り下げることで詩を得ようとする営みと取れた。〈ジムノペディ蠅は椅子にも天国にも〉はサティへの批評となる諧謔の句として面白かったが、〈海を経て風に傷あり羽抜鶏〉〈湯たんぽや絵本の海の深きこと〉などイメージが近いもの同士で癒着してしまい、自己のうちで句が完結してしまうケースも多かった。
田中裕明賞は自選による応募作から選ばれるため、著者が応募しなかった大塚凱『或』は候補に入らなかった。他の選考委員と読みあう機会が失われたことが惜しまれる。それはあるいは、選考委員が応接しきれず、この句集とすれ違うという事態になってしまったかもしれないのだが。
高田正子
今年も候補作は6冊。冊数の少ないことがデフォルトになってきているが、重なることのない6通りの個性を楽しませていただいた。
裕明賞がリミットとしている45歳は、実社会においては若者と呼ばれなくなる年齢であり、中堅というよりベテランの域に入ろうとする年頃である。自ずと備わってきた個性があって当然なのだが、どういうわけか、俳句には見合うかたちで投影されないケースが多い。かつてのわが身を顧みても、むしろ我(が)を消そうとさえしていたのだから、他人事を語っているつもりはない。そういう中にあって、裕明賞にエントリーしてくる個性は実にきらびやか。その眩しさをまず享受する心持ちで、毎年その第1ページを開いている。
順位をつけるためにはまた別の読み方をせねばならず、一読者でいることが許されないのが悩ましいところだ。今回は読み返すうちに1位は自ずと決まったが、2位以降の順位付けが難しかった。結果として、個性の重なりが少ない形に落ち着いたというのが今年の感想である。
1位には『一花一虫』を推した。1999年生まれの最年少の作家の10年に満たない期間の作品集であるが、高校時代の抒情に始まり、掉尾に無季の1句を置くまでの、葛藤や紆余曲折が編年体で綴られていて興味深く思った。
巻頭に置かれた2句、
雪よりもつめたき雨にかはりけり
スキーリフト夜はなにものとすれちがふ
は十代の抒情句であるが、第1句を実、第2句を虚とみれば、この一集を通して、実のみならず虚の世界も追い求めていくという宣言のようにも読める。
受験生たる終の灯を落しけり
この作家もまた俳句甲子園出場世代であるが、大学受験まで句材として取り上げ、良質な1句に結実することができたのは(当人にとっては単なる身辺詠なのだが、そのこともまた)幸いであった。
短い期間の作品だからでもあろうが、似た傾向のことばが多いと感じることもあった。たとえば位置関係を示す語、「すぐ裏の」「まへを」「うしろが」「ずつと背後に」といったもの。作者の位置を含め、ものの位置関係の定かな把握は大切なことだが、ややストリクトな印象。その反面「夏の匂ひ」「さう匂ふ」「その匂ひ」「臭かな」と「におい」の表現も目立つ。これは「きさらぎけはい」「流氷のけはひ」と形のないものにつながってゆくのだから面白い。
ここに切り取られたのは、学生から社会人となる、最も変化の大きい日々を駆け抜けた姿である。緩急を伴うスピード感はこの句集の魅力のひとつといってよいだろう。
2位には『明日の鞄』を推すことにした。ものも心も表現できる確かさのある作家である。
春の昼棒もて帽子下ろされぬ
茸汁きのこ押さへて啜りけり
開くとき翼の音のする日傘
など等身大の身辺詠に長け、読者は共に穏やかな充足感に包まれる。読後の心地よい一集。ではあるが、跋やあとがきによると、病を得たことが俳句に傾倒するきっかけとなったという。
昨年の受賞句集『メゾティント』も苦しみを抱えたことが一つの契機となったといえる一集であったが、「一句を書くことは 一片の鱗の剝脱である」という三橋鷹女のことばを思い出すところがあった。スタートに共通項を見いだせる2冊であるが、仕上がりが対照的であることに驚く。良し悪しを言っているのではない。句集はあくまでその時期のその作家を表すものだ。若い作家たちが先へと進む過程において、それぞれに確かな標を現地点に打ち込めたことを言祝ぎたいと思う。
3位には『パブリック』を選んだ。この人の世界の捉え方は楽しい。
等身大パネルのやうな新社員
内側のやうな外側捕虫網
といった比喩や、
白シャツと顔の間の喉仏
秋雨や鎖骨に歪むネックレス
聖五月鏡に顔は切り取られ
のような、体の部位の捉え方、
敗蓮や水に消えゆく水の皺
行く秋の水面にゆるむ電波塔
鴨うごく寂しき場所を探しつつ
など、水面を見つめる視線に惹かれた。
読後感としては、猛スピードで展開する作品群を追ってゆく楽しさと、画質の粗さにピントを合わせづらく感じることの双方が残った。速度にメリハリがつくと、また違った味わいであったかもしれない。もっとも、振り落とされる読者が悪い、のかもしれないが。
髙柳克弘
第一位に西生ゆかり『パブリック』を推した。既成の情趣に拠ることなく、自身の感性を伸びやかに十七音で表現しているところが好きだった。「ベランダにいつもの人や今日は白」「蟹の朱よ鯨の赤よ一人の夜」「NHKに照らされてゐる梨と母」など、ことさらに狙うことのない可笑しみの句にとくに惹かれた。「五月生まれ言葉育ちや舌に雨」は、現代俳句に一般的な実感重視の季語の使い方とは異なるが、言葉を面白がるこの作者らしい一句だ。「木下闇撫で回されて犬歪む」、ほのぼのとした癒しを求めてこの作者の句を読むと、むしろぎょっとさせられるので忌避してしまうかもしれないが、ふいうちでガツンと頭を殴られるようなショックは心地よくもある。切字も多用され、文語を基調としており、文体としてはオーソドックスなのだが、内容や情感が伝統的なものとはいさぎよく切り離されていて、新鮮な印象だった。
第二位に推したのは板倉ケンタ『一花一虫』だ。初期作品の「雪よりもつめたき雨にかはりけり」「スキーリフト夜はなにものとすれちがふ」あたりの繊細な感覚は、唯一無二のものだ。中盤以降からは、やや難解、生硬さが目に立った。もちろん、「氷上と氷中同じ木のたましひ」「楢枯のみささぎ遠し夏の雨」「老人の流す金魚の古い水」「根ごと木の倒れて秋の揚羽蝶」など、愛誦に値する句は多いのだが、俳句は広範な読者へ開かれたものであってほしいという私の思いからすると、自信をもって推すことはできなかった。この句集が受賞作となったことに異論はないが、そうした意見が出たことも知っておいてほしい。
第三位には遠藤容代『明日の鞄』を選んだ。「対岸の花見が一つ終はりけり」「淋しさや金魚の方も顔覚え」「それきりやコンクリートに落花して」といった明るさの中にも陰りのある句に、奥行きを覚えた。親しみやすく、優しい作風であるが、「住民はあまり眺めず冬の川」の突き放したものの見方もあって、単調さは感じなかった。俳句を評するときのポジティブな評言に「言葉に無理をさせていない」というものがあり、まさにそのとおりの句集であったが、言葉に無理をさせることで生じる軋みの音も大事ではないかと考える。
以下、候補となった句集から、ひとつずつ好きな句を引く。「花冷の傘を掛けおく手首かな」(若林哲哉句集『漱口』)、「湯たんぽや絵本の海の深きこと」(楠本奇蹄句集『グッドタイム』)、「ブーツ履くエンジン音に急かされて」(竹岡佐緒理句集『帰る場所』)。
選考経過報告
第17回田中裕明賞の選考委員会は、5月2日(土)の午後4時よりふらんす堂にて行われました。
応募句集は、6冊。
選考委員は、選考会までに上位三位まで、3点2点1点の点数をつけてもらいます。
その結果、板倉ケンタ句集『一花一虫』8点、西生ゆかり句集『パブリック』7点、遠藤容代句集『明日の鞄』5点、若林哲哉句集『漱口』2点、楠本奇蹄句集『グッドタイム』1点、竹岡佐緒理句集『帰る場所』1点という結果となりました。
なお、句集『一花一虫』については、佐藤選考委員は編集に関わったと言うことで点をいれるのを辞退されました。
選考会は、点の低い句集から討議をはじめ、およそ二時間半をかけて行われました。
丁寧に討議をかさねた結果、得点どおり板倉ケンタ句集『一花一虫』の第17回田中裕明賞が決定しました。
今回、無点の句集はなく点の開きも少なく、それぞれ充実した句集であったのではないかと思います。
選考については、冊子「第17回田中裕明賞」に選考についてつぶさに記されてありますので、是非それを読んでいただきたいと思います。
ふらんす堂 山岡喜美子
第17回 田中裕明賞候補作品
○竹岡佐緒理『帰る場所』(2025年1月21日 ふらんす堂)
○楠本奇蹄『グッドタイム』(2025年5月1日 現代俳句協会)
○若林哲哉『漱口』(2025年6月14日 文學の森)
○遠藤容代『明日の鞄』(2025年6月30日 ふらんす堂)
○西生ゆかり『パブリック』(2025年9月30日 左右社)
○板倉ケンタ『一花一虫』(2025年10月1日 ふらんす堂)