トラが部屋に現れたのは、雨あがりの夕暮れ時だった。大きな水たまりのような瞳でじっとこちらを見つめながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。怖さはなかった。むしろ不思議な懐かしさが込み上げ、感無量であった。トラは何も言わず、棚の上に置かれた陶器のトラの置物を一瞥し、それを口にくわえると窓辺に向かった。夕日に染まるカーテンをゆらし、トラはそっと消えた。棚の上には、代わりに干柿がひとつ残されていた。
著者略歴
小津夜景(おづ・やけい)
1973北海道生まれ。句集に『フワラーズ・カンフー』(第8回田中裕明賞)、『花と夜盗』。エッセイ集に『カモメの日の読書』『いつかたこぶねになる日』『ロゴスと巻貝』。そのほか、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者須藤岳史との往復書簡『なしのたわむれ 古典と古楽をめぐる手紙』。現在『すばる』で「空耳放浪記」連載中。
(ヘッダー写真:小津夜景)
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