「大坂の俳句―明治編」を読む 俳人・村上鞆彦が読む『大阪の俳句』シリーズ vol.62016.6.29

 

武定巨口句集『つは蕗』を読む vol.6

 武定巨口たけさだきょこうは、明治十六年に岡山で生まれた。明治三十三年、正岡子規の俳句理念に共鳴する大阪満月会で松瀬青々と出会い、師事。後に青々主宰の「宝船」の編集に携わった。「宝船」は大正三年に終刊となったが、翌年に「倦鳥」として改題継承。昭和十二年の青々没後は、巨口が「倦鳥」の雑詠選者をつとめた。昭和十六年、巨口没、満五十八歳であった。
 句集『つは蕗』は、明治四十五年四月に刊行された巨口の第一句集である。この時、巨口は二十九歳で、俳句を始めてから約十年が経っていたという。句集の構成は、新年、春、夏、秋、冬の全五章で収録句は三一六句、巻頭に青々の序文が付されている。今回のふらんす堂版『つは蕗』には、序文以外の全五章が収録され、そこに朝妻力氏による解説と略歴とが加えられている。
 その略歴を見ていて、目を引かれたところがあった。明治四十五年の記述である。
 四月、巨口、句集『つは蕗』刊行。村山古郷は『明治俳壇史』にて「虚子が平明を説くきっかけとなった」と評す。
 早速、『明治俳壇史』を確認したところ、あらましは次のようなものであった。
 明治四十五年当時、碧梧桐の新傾向が全盛を極め、ホトトギスの俳句は不振に陥っていた。雑詠欄は三年前にすでに廃止され、課題吟の欄が細々と続けられているばかり。虚子自身も俳句以外の執筆活動が中心で、俳句を捨てるべきかどうか迷っていた。しかし俳句に未練があった虚子は、今一度力を注いでみようと、ホトトギスの明治四十五年五月号にて雑詠募集の告知を掲載。七月号から虚子選雑詠欄が復活した。そんな折に『つは蕗』を目にした虚子は、新傾向の時流に染まらず平明の調べに立脚した巨口の句風を評価。子規時代の平明の句風をなつかしみ、この路線で新しいものを作ってみることは愉快なことだろうと思ったという。「平明を説く端緒は、ここに発した」。
 『明治俳壇史』がいかなる資料によって右のような記述をしたのかは明言されていないので、虚子自身の書いたもので確認することはできなかったが、もしここに潤色がないとすれば、『つは蕗』は虚子に少なからぬ影響を与えたことになる。武定巨口というと、現在ではその名前が取りあげられることは少ないが(もっとも私の不勉強ゆえの偏見かもしれないが)、そんな人物の句集が意外にも虚子と深い関わりを持っていたとは驚きであった。
 虚子が評価した巨口の平明、それを実際の作品について見てみると、好例として次のようなものが挙げられよう。

 

雪解に屋根の手毬も落にけり

 

  屋根に引っ掛かったまま忘れられていた手毬。それが雪解けを迎えたことで、屋根から落ちてきた。春の到来に、思いがけないおまけも付いてきた嬉しさ。

 

山際の林あかるし春の雨

 

 木々はすっかり葉を落して、辺りは明るい。そこに優しく降り注ぐ春の雨が、木々の芽吹きを促す。静かな華やぎが感じられる。

 

葛水に一つの蟻のつきにけり

 

 葛水は葛湯を冷やした夏の飲料。その甘さに誘われて、どこからか一匹の蟻がやってきた。視線が細やかで、焦点が決まった明解さ。

 

金柑の尻皆光る小春かな

 

 室生犀星に〈青梅の臀うつくしくそろひけり〉がありよく知られているが、それは昭和に入っての作という。そうなると右の金柑の方がだいぶ先である。小春の日差しを浴びて、揃って光る「金柑の尻」が愛らしい。
 他にも枚挙に暇がないが、碧梧桐の新傾向に辟易としていた虚子に、これらの平明な作品が好感を以て迎えられたことは十分に頷ける。虚子は後に客観写生の平明を説くことになるが、そこに至るまでに巨口の平明に触れていたことを思うと感慨深いものがある。
 しかし巨口の作風が単に平明なだけであったかというと、そうではない。『つは蕗』には平明とは異なる特徴の句も収録されている。
 それらを紹介してゆこう。

 

歌かるた門をたゝくは忠度よ

 

 忠度とは平忠度たいらのただのりのこと。彼は清盛の弟であり、文武に優れ、俊成に就いて和歌を学んでいた。平家が都落ちをした際、俊成を訪ね、勅撰和歌集撰進のときには自分の歌も選んでほしいと懇願したという逸事が残っている。それを下敷きに右の一句は成っており、歌かるた─定家─俊成という発想の流れが窺える。歌留多取りをしている家へ、不意に訪ねてきた年賀の客、それを俊成を訪ねた忠度に見立てて興じた句である。
 平明に対象を描写するのとは違い、右のように故事来歴から想を得るという知的な働きによっても巨口は句を詠んだ。そしてその故事来歴は日本のものよりも、漢籍由来のもののほうが圧倒的に多いという特徴がある。

 

早鮓に子膽魯直に謂て曰く
川に雪隠借るやほとゝぎす
門の苗に巫山の雨の三粒ほど
沙魚釣や東坡が妻の粮用意

 

 朝妻氏の解説によると、巨口は十七、八歳の頃、漢学塾に通っていたとのこと。それを知れば漢籍の知識を典拠とした句が多いことにもなるほどと合点がゆく。もっともこれらの句は、漢籍の素養に乏しい私にはなかなか解釈が難しいのであるが……。
 また、次のような句にも注目した。

 

大石に霧の流るゝ野中かな
北風の胴中に入る寒さ哉
手袋の大きな手出す焚火かな

 

 一句目、野中に据わった大きな石の面を、濃く淡く霧が流れてゆく。石の盤石さと霧のふわりとした感触との対比。二句目、「胴中」とは真ん中という意味で用いられているのだろうが、胴という言葉があるために北風が横に長く伸びた、例えば蛇身のようなものに感じられてくる奇妙さがある。三句目、自分の手ではなく他者の手の描写であろう。「大きな」の一語が生きている。思いがけず目にしたという驚きのこもった「大きな」である。これらの句はいずれも表現は平明であるが、描かれた対象が独特の存在感でぬっとこちらへ現れ出てくるような不思議な味わいがある。
 その他にも、

 

行春やもろこの骨のかたうなる
切れ凧は大堤防を越えにけり
窓掛を緑にするや蝶の出る
暗がりに水仙を伐る氷かな

 

といった佳作を拾うことができる。また、次のような情感の濃やかな作品もある。

 

橘の形見とて見ん小櫛かな

 

 前書きに「絶恋」とあり、古今集の〈さつき待つ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする〉が下敷きだろう。実は巨口には、色恋に絡む〝事件〟を引き起こした過去があったのだが、それに触れるには紙数が尽きた。気になる方は『つは蕗』巻末の朝妻氏の解説に当たっていただきたい。

 


●筆者紹介

村上鞆彦(むらかみ・ともひこ)
1979年 大分県宇佐市生まれ。1998年 「南風」入会、鷲谷七菜子、山上樹実雄に師事。現在 南風主宰(津川絵理子と共宰)・編集長、俳人協会会員。句集 『遅日の岸』。

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