往って、還って来た者 小野裕三2010.10.17
洞を出てこの世の落葉ふりつもる
(『草樹』)
俳句とは「冥界の文学」である、と僕は以前に書いたことがある。「原爆文学」の代表的作家・原民喜を論じた際のことだ。若い頃の原は、句作も多くした。その原が残した「原爆文学」の代表作に小説や詩はあっても、俳句はない。その理由を解き明かそうとする中で、冥界との回路を開くものとしての「冥界の文学」というキーワードが浮かんだ。
例えば掲句にも、現世と冥界の境のような肉体感覚が立ち上がる。外界から洞に入ってまた出てきた作者には、句作に格闘した後にも似た感覚がよぎったのではないか。現世から冥界に往って、還って来た者。そこでのみ掴みうる、冥界の痕跡としての俳句。桂信子も、若くして夫を病気でなくすなど、「死」の重さと無縁ではない人生だった。しかし、それを高々と叫ぶでもなく、ひっそりと吹き込むように俳句に映し続けた。
勿論そのような重さを、高々と叫ぶ方法も俳句史上にはあるし、仮に原民喜が原爆のことを俳句にきちんと映しえたなら、それは最高の社会性俳句になりえたかも知れない。しかし彼は、原爆という重い社会的テーマを映す手段としては俳句を選ばなかった。それは単純な理由で、単に小説や詩に比べて俳句がその行為に向いてなかったからである。ただし、向いていない理由は俳句が人の生死といった問題に無関心・無感覚な文芸だから、ではない。話はむしろ逆で、俳句はもともとが「冥界の文学」であって、すでに生と死の回路を往還した地点からこそ始まりうるものだからだ。
社会性俳句的な手法はややもすると、「俳句だってこのくらいの社会問題のことは目配りしてますよ」という「アリバイ作り」にも堕してしまいかねない危うさを持つ。むしろ、亡き夫の姓を背負ってひっそりと吹き込むように俳句を作り続けた桂信子のようなあり方こそ、「冥界の文学」たる俳句に相応しい所作のようにも感じる。
[著者略歴]
小野裕三 Yuzo ONO
1968年、大分県生まれ。「海程」「豆の木」所属。海程新人賞・現代俳句協会新人賞佳作・現代俳句協会評論賞・新潮新人賞(評論部門)最終候補など。句集『メキシコ料理店』。