《三月十四日》贋札の一枚まじる辛夷かな

シダラン島は潮の匂いが濃く、風は柔らかかった。空を見上げれば、雲は静かに揺れていた。一日過ごしても、変わった光景は目に入らなかった。翌朝、鳥の声に目を覚まし、ふと池に目をやると、白い花のついた木が朝の光を浴びていた。父はそのひと枝を折り、旅の道連れにすることにした。そしてある夜、ひと夜を過ごした海辺の廃屋の庭に、枝から取った新芽を植えた。運良く根づいた。父はその木がどうなるのかを見届けたくなった。放浪をやめるには、十分な理由だった。

著者略歴

小津夜景(おづ・やけい)

1973北海道生まれ。句集に『フワラーズ・カンフー』(第8回田中裕明賞)、『花と夜盗』。エッセイ集に『カモメの日の読書』『いつかたこぶねになる日』『ロゴスと巻貝』。そのほか、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者須藤岳史との往復書簡『なしのたわむれ 古典と古楽をめぐる手紙』。現在『すばる』で「空耳放浪記」連載中。

(ヘッダー写真:小津夜景)

 

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バックナンバー

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  • 3月11日:鳥帰るまでの恋とは知らざりき
  • 3月10日:ひなぎくに八十と九の闇ありぬ
  • 3月9日:潮に熨すイグナティウスの春衣かな
  • 3月8日:鱗屑を背におぼろ夜をおよぐなり
  • 3月7日:ミラー越しもうひとつ在る岬に蝶
  • 3月6日:青信号淡き春日の流音奏
  • 3月5日:鐘が鳴る シャボンの玉が空を吞みこむ
  • 3月4日:婚礼の日の流木に泡立つ蝶
  • 3月3日:レタス食み無言で過ごすひとときの
  • 3月2日:彫り跡にオトメツバキの微睡む夕
  • 3月1日:うららかや雲母の縁のほろり崩ゆ

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