《三月十三日》クロッカスひとつ遅れて鳴る時計

雲だ。雲だ。男は歓喜し、木に駆け寄った。白い塊をつまみ、口に運ぶ。食べるほどに、体が軽くなる。空に吸い寄せられるように、浮いた。ふと気がつけばそこは木のてっぺん。見上げれば、ぽっかりと空洞があり、すんでのところで頭を突っ込みかねなかった。あわててもがいたが、もう遅い。男はそのまま空洞へと滑り落ち、天へとめり込み、絶命した。わたしの父は若いころ、この伝承を耳にし、シダラン島へ向かった。

著者略歴

小津夜景(おづ・やけい)

1973北海道生まれ。句集に『フワラーズ・カンフー』(第8回田中裕明賞)、『花と夜盗』。エッセイ集に『カモメの日の読書』『いつかたこぶねになる日』『ロゴスと巻貝』。そのほか、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者須藤岳史との往復書簡『なしのたわむれ 古典と古楽をめぐる手紙』。現在『すばる』で「空耳放浪記」連載中。

(ヘッダー写真:小津夜景)

 

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バックナンバー

  • 3月13日:クロッカスひとつ遅れて鳴る時計
  • 3月12日:海賊盤ウィリアム・バロウズの春を愛し
  • 3月11日:鳥帰るまでの恋とは知らざりき
  • 3月10日:ひなぎくに八十と九の闇ありぬ
  • 3月9日:潮に熨すイグナティウスの春衣かな
  • 3月8日:鱗屑を背におぼろ夜をおよぐなり
  • 3月7日:ミラー越しもうひとつ在る岬に蝶
  • 3月6日:青信号淡き春日の流音奏
  • 3月5日:鐘が鳴る シャボンの玉が空を吞みこむ
  • 3月4日:婚礼の日の流木に泡立つ蝶
  • 3月3日:レタス食み無言で過ごすひとときの
  • 3月2日:彫り跡にオトメツバキの微睡む夕
  • 3月1日:うららかや雲母の縁のほろり崩ゆ

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