《六月二十五日》暑き日や郵便受けに手がはいる

──名前が消えると、場所は場所でなくなります。その空白に、別の重さが流れ込む。
名前のない駅。彼女はそこを知っているような気がした。誰かを見送った記憶。けれど誰だったか、どうしてだったかは、思い出せない。冬の朝、ストッキング越しに足元からじわじわと冷えたこと。切符を渡すとき、言葉を探して、それでもなにも言わなかったあのときの感じ。ポケットのなかの指先の冷たさだけが、今もずっと残っている。

著者略歴

小津夜景(おづ・やけい)

1973北海道生まれ。句集に『フワラーズ・カンフー』(第8回田中裕明賞)、『花と夜盗』。エッセイ集に『カモメの日の読書』『いつかたこぶねになる日』『ロゴスと巻貝』。そのほか、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者須藤岳史との往復書簡『なしのたわむれ 古典と古楽をめぐる手紙』。現在『すばる』で「空耳放浪記」連載中。

(ヘッダー写真:小津夜景)

 

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バックナンバー

  • 6月27日:はじけても泡はなんにも言わぬ夏
  • 6月26日:割れし皿ぴたりと合わせ青嵐
  • 6月25日:暑き日や郵便受けに手がはいる
  • 6月24日:短夜のシンセひと鳴きして黙る
  • 6月23日:バナナ食ふ肌に夜明けの絵の具のせ
  • 6月22日:香を積みてふいに沈めり朴の花
  • 6月21日:玉葛のからみて建つはものの影
  • 6月20日:あやめ咲く風の来しかたなき調べ
  • 6月19日:繭ひとつ置きしより塔崩れをり
  • 6月18日:蜘蛛の囲の仮面は吊るしあるままに
  • 6月17日:額縁を出でしごとくに桐の花
  • 6月16日:くちなはと同じ日焼けの跡なりき
  • 6月15日:素足して光のうらをすこし踏む
  • 6月14日:雨音のとだえしのちの青き鷺
  • 6月13日:腕のかたちをなぞりつつ蛇とゐる
  • 6月12日:夢の背をきりりと裂いて干す浴衣
  • 6月11日:失せものの香をたどるや夏座敷
  • 6月10日:木苺や塔にささったままの鍵
  • 6月9日:打ち水やあとさき湾る下駄のこゑ
  • 6月8日:青蛙棲むとは粘土火のかたち
  • 6月7日:蟻のこと書いてるだけで日が暮れる
  • 6月6日:白服を遺書の風ごとたたみけり
  • 6月5日:扇より逃げし香りの名は知らず
  • 6月4日:金魚とは水にある火のゆくへなり
  • 6月3日:風鈴や裏返りゆく紙の町
  • 6月2日:籐椅子や風たまゆらのままに在り
  • 6月1日:金魚鉢覗くたびまた変はる顔

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