昔は塔なんてなかった。雲も風も、もっと自由だった。深空魚はもっと高いところを泳ぎ、こぼれたうろこが風に乗って、空を満たしていた。でもいつしか人は、時間を手なずけ、道具にしてしまった。そして、過去を眺めず、未来を紡がず、ただ現在という薄い膜の上に生きるようになった。 もう誰も雲を読もうとしない。それなのに、わたしはいまだに雲を追い、こぼれる文字をすなどりつづけている。
著者略歴
小津夜景(おづ・やけい)
1973北海道生まれ。句集に『フワラーズ・カンフー』(第8回田中裕明賞)、『花と夜盗』。エッセイ集に『カモメの日の読書』『いつかたこぶねになる日』『ロゴスと巻貝』。そのほか、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者須藤岳史との往復書簡『なしのたわむれ 古典と古楽をめぐる手紙』。現在『すばる』で「空耳放浪記」連載中。
(ヘッダー写真:小津夜景)
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