
《五月二十一日》夏野ゆく観測前の猫を抱き
だが、名づけそこねたものほど、なぜか印象に残る。曖昧である、それだけのことで、人は意味のありかを探しにいってしまうのだ。たとえば「わたしは誰でしょう」と問われたとき、人はなぜか、その問いに応じる責任のようなものを感じる。自分から答えたいわけではない。ただ、問われたという事実が、応答の回路を勝手に立ち上げてしまう。そんなふうに、この本もまだ何も語っていないのに、彼女の意識の内側に、するりと入り込んできた。
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だが、名づけそこねたものほど、なぜか印象に残る。曖昧である、それだけのことで、人は意味のありかを探しにいってしまうのだ。たとえば「わたしは誰でしょう」と問われたとき、人はなぜか、その問いに応じる責任のようなものを感じる。自分から答えたいわけではない。ただ、問われたという事実が、応答の回路を勝手に立ち上げてしまう。そんなふうに、この本もまだ何も語っていないのに、彼女の意識の内側に、するりと入り込んできた。
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