祈る詩[8]―G・ハーバート2017.4.1
Easter Wings George Herbert
Lord, who createdst man in wealth and store,
Though foolishly he lost the same,
Decaying more and more,
Till he became
Most poore:
With thee
O let me rise
As larks, harmoniously,
And sing this day thy victories:
Then shall the fall further the flight in me.
My tender age in sorrow did beginne
And still with sicknesses and shame
Thou didst so punish sinne,
That I became
Most thinne.
With thee
Let me combine,
And feel thy victorie:
For, if I imp my wing on thine,
Affliction shall advance the flight in me.
「灰の水曜日」から数えて46日目、2017年は4月16日がイースターだ。
イースター(復活際)の詩と言えばこれしかない、という一篇、
復活を謳う詩をご紹介したい。
17世紀宗教詩人の代表格、ジョージ・ハーバートのアイコン的作品である。
文字通りアイコン、つまりイコンと呼べる詩であろう。
ひと目見てお分かりになる通り、行の配置に特徴がある。
現代の「コンクリート・ポエトリー」「視覚詩」の始祖とも言われている。
(遡れば、中世ラテン語の飾り文字の聖書・祈祷書写本があり、
展開の先には、秩序を破壊するシュルレアリスムやダダイズムもあるだろう)
まず英語原文のまま、視覚的効果を感じてもらえたらと思う。
表意文字である日本語表記は、アルファベットと異なり、
瞬時に意味が伝わってしまうからだ。
1633年に出版されたときには、以下のような縦書き印刷だったという。
さて、読者の皆様には、何の形に見えるだろうか?
有名な詩なのでご存知の方も多いと思うが、答えは、
翼。
広げた翼が二つ並んでいるのだ。
詩「復活祭の翼(イースター・ウィングス)」は堕落と罪から復活し、天へと力強く羽ばたく翼の詩なのである。
まさに春の祝日、
長い冬を過ぎて花々が一斉に咲きだし、鳥が囀り虫や獣も巣穴を出る季節に、
イエス・キリストの死からの復活を祝うのである。
イースターには、再生のシンボルであるイースター・エッグが配られる。
黄色、ピンク、ミント・グリーン、水色に染めたゆで卵に、
カラフルな縞や水玉模様。花や、ひよこ、ウサギの絵。
そしてHappy Easterの文字。
ミサを終えて聖堂の外へ出ると、春の明るい日射し、そしてパステルカラーの卵が山と積まれている。真っ先にテーブルに行って、一番きれいな卵を選びたい。そう思っていた。
子供たちは一散に駆けていく。私も籠を覗き込んで、姉や友達と比べ合って熱心に選んだ。イースター祭は、春の喜びが溢れていた。
しかし卵の前に、お祈りとお説教だ。ミサでは長いお説教を聞かねばならない。
退屈な。
復活祭ミサともなると、30分は覚悟しなくてはならない。
少女時代の私には空想に耽る時間だった。
17世紀のジョージ・ハーバートの詩は、現代人の目から見ると相当に古風だ。
講義で「復活祭の翼」を初めて読んだ時には、視覚的には感心したものの、
まるで教会のお説教みたい、と心惹かれなかった。
冒頭いきなり「主よ、(Lord)」と始まる。
お祈りだ。
そして人間の罪と堕落、そしてキリストの十字架の死による贖い。
お説教そのもの。
それにしても、なんと良く出来ているのだろう。
詩の意味内容と形がぴたりと重なり、イメージが飛翔するように作られているのだ。
まず1行目、神に創造された人間は、楽園エデンの園にある。
2行目、しかし愚かにも罪を犯し楽園を失い、
3行目、墜落していく。
この下降の過程が行の短縮と呼応しているのである。
しかも完璧に脚韻を踏み、頭韻、韻律など音楽性も豊かに。
2連目は詩人のより個人的内省的な声となり、病と恥のうちに、
行は短縮されていく。
では一番短い行がどうなっているのか。
日本語訳をここでご紹介したい。
「復活祭の翼」 ジョージ・ハーバート
主よ、豊かなる楽園に人間を創り給う主よ、
愚かにも彼はそれを失い、堕落し
さらに堕落し、遂には
なり果てたのだ、
貧しき者へ。
主と共に
どうか私を
雲雀の如く昇らしめよ、
あなたの勝利を美しい調和のうちに歌いつ。
楽園からの失墜こそが、私の飛翔をより高めるだろう。
私の幼き日々はかつて悲しみのうちに始まり
いまだ病と恥のうちにあるのだ。
あなたが罪を罰されたので、
私はもっとも
弱き者に。
主と共に
どうかあなたと一致し、
その勝利を味わわせたまえ。
あなたの鷹の翼に私の羽を継ぎ足すなら、
苦難こそが、私の飛翔を更なる高みに至らせるだろう。(森山 恵 訳)
一番短い行は「主と共に(with thee)」である。
つまり人間が堕落し、「貧しき者」となり果てた時に、
「私」が病や恥のうちにもっとも「弱き者」となった時に、
傍らに残るのは「あなた(神)」なのだ。
ところで、詩人ジョージ・ハーバートの名前を、
T.S.エリオットの評論から知る方も多いと思う。
評論「形而上詩人(The Metaphysical Poets)」でエリオットは、
「感受性の分裂」という有名な語を生み出し、ミルトンやロマン派詩人らを批判し、
ハーバートを含む形而上詩人を称揚したのである。
形而上詩人たちは、深い思想と感情とを結びつける「感受性」を有していた、というのである。ここでエリオットにとり「思想」「知性」も非常に大切なのである。
例えば「復活祭の翼」、各連の最終行に示されるのも、「思想」に当たるだろうか。
「楽園からの失墜こそが、私の飛翔をより高めるだろう」
「苦難こそが、私の飛翔を更なる高みに至らせるだろう」
の詩行は、felix culpa(幸いなる罪)という、
聖アウグスティヌスが「復活祭徹夜ミサ」の説教で示した神学に繋がる。
人間が罪を犯したからこそ、楽園からの追放があり墜落があり、
さらにまたキリストの受肉と贖いがあり、救済がある―――
―――というようなお説教を――まったく上の空だったけれども、
あの時の神父様もしていたかもしれない。
今回読み返していて、はっと気付いた。
先程も書いたように「復活祭の翼」は、英語でも縦書き印刷されている。
だから私も詩集を手に取り、90度回転させた。
そうだ、これは「回転(turn)」を促す詩なのだ。
前回のエリオットの詩「灰の水曜日」でも頻出した「ターン(turn)」は、
回心、内省の意も含む単語である。
しかしそれに先立って、身体的動作の「ターン」を引き起こす詩なのだ。
その他、詩集全体に幾重にも意味が隠されている。直截にして深淵。
詩人と神との内的対話、祈りである。
生来体が弱かったハーバートは詩を発表することもなく、僅か39才で生涯を閉じた。
けれども春の光の中、彼の詩は、復活の翼の如く力強く羽ばたき続けている。
パステルカラーのイースター・エッグの殻を剥きながら、希望に似た明るい力が、私の指先からも湧いてくるのだ。
【ジョージ・ハーバート (1593-1633)】
イングランドとの国境近くウェールズ・モンゴメリー生まれ。17世紀形而上詩人・宗教詩人の一人。貴族の血筋もひく裕福な家系に生まれ、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学位を得ると、ラテン語演説者などの要職に就く。またジェームズ一世の寵を受け貴族院議員も務めるが、2年ほどで世俗の職を辞す。その後英国国教会聖職者となり、晩年は田舎の小さな町で、教区の仕事と詩作に身を捧げた。聖人のようであったといわれる。死後3ヶ月、詩集『教会(The Temple)』(1633)が出版された。