祈る詩 [1]-W・B・イェイツ2016.8.25
湖の小島イニスフリー
ウィリアム・バトラー・イェイツ
さあ、立ちあがって行こう、イニスフリーの湖島へ、
枝を編んで土壁を塗り、小さな小屋を建てよう。
あるのは豆畝が九つと、蜜蜂の巣箱が一つだけ
そして一人暮らそう、蜂の羽音響くその森の空き地に。
心も穏やかになり、安らぎがゆっくりしたたり落ちてくる、
朝靄のヴェールから、こおろぎ鳴くところに。
真夜中は瞬く微光にあふれ、昼はむらさき色に輝き、
夕暮れには紅ヒワの羽音が満ちる。
さあ、立ちあがって行こう、夜も昼も、
街角に立つときも、灰色の舗道に佇むときも、
心の深い奥底に聞こえてくるのだ、
湖の岸辺に寄せる、あの波音が。(拙訳)
「さあ、立ちあがっていこう、イニスフリーの湖島へ」、
(‘I will arise and go now, and go to Innisfree’)、
この詩を初めて知ったのは大学二年生の時だった。
イェイツがどんな詩人なのか、
イニスフリーがどこなのかもまだ知らなかった。
「イギリス文学史」の講義で先生の朗読を聞きながら、
生き生きとしたリズムと、美しいメロディに魅了された。
頭の中に映像が広がる。
湖に浮かぶ小島、ばら色の朝靄きらめく星空。
大学の教室が一瞬にして夢の世界へ変貌する。
これは「白昼夢」の詩であり、「ここではないどこか」を憧れ歌う詩なのだ。
「イニスフリー」は1890年に最初に発表されているが、
この年代にしては古典的な形式で書かれている。
脚韻を正確に踏んでいる上、
(free-bee, made- glade, slow-glow, sings-wingsなどABAB CDCD EFEFの脚韻)
ゆるやかながら伝統的韻律も守っている。
長く伸びる母音が、夢見るような神秘的雰囲気を盛り上げている。
読み返す今も、
なにかに遠いものに強く強く憧れていた気持ちが甦ってきて、胸が熱くなる。
ミツバチが飛び回り、コオロギが鳴き小鳥の羽音が響く。
いつの日かこのイニスフリー島へ行きたい、そう夢見ていた。
後に解説書を読んで驚いた。
「立ち上がって(I will arise)」の一節は聖書『ルカによる福音書』、
放蕩息子の喩え話に関連した言葉だったのだ。
家出して放蕩の限りを尽くした息子が、何年も経って故郷に帰還し父親に許しを請うという聖書の喩え話である。
すべてを許し受入れる神の大きな愛を説いている。
最終連で明かされる通り、詩人はロンドンの「灰色の舗道」に立っている。
一方のイニスフリー島は、
イェイツが少年時代を過ごしたアイルランド西部・スライゴーにある。
ロンドンの街角で一人遠い故郷を想っているのだ。
岸辺の水音は、詩人の心の奥深く鳴り続けていたのである。
当時25歳のイェイツは放蕩していた訳ではなく、
ロンドンの文壇で詩人・劇作家として精力的に活動していた。以後、
二十世紀を代表する詩人となっていく。
教室でこうして夢見ていたけれど、その後の私は、
どこへも「立ち上がって行く」など出来ない日々になった。
イニスフリーは象徴的夢の場として、
いつの間にか記憶の中で書き換えられていったのだ。
「さあ、立ちあがっていこう、イニスフリーの湖島へ」、
(‘I will arise and go now, and go to Innisfree’)は、
私の夢であり希望であり、祈りでもあった。
昨春、姉がアイルランドを訪れて、
「イニスフリー」という名の香水を買ってきてくれた。
ひと吹きすると、ユリやジャスミン、ラヴェンダーの爽やかな香りが広がる。
大切にガラスの飾り棚に置いた。
夏の間留守にして戻ると、香水瓶が姿を消している。
慌てて棚扉を開いた。
ガラスの細かな破片が一面に散っている。訳がわからずしばし呆然とする。
そう、連日の猛暑で破裂してしまったのだ。
粉微塵になり、後には香りだけが濃く残っていた。
香水瓶は夢のように消えてしまったけれど、
「イニスフリー」の詩は生きている。
最後は「心の深い奥底に(in the deep heart’s core)」と、
一転、畳みかけるような明快なリズムで結ばれる。
読む者の心も高鳴る。
波音はイェイツの心に、そして私たちの魂にも響いているのだ。
終わりに、英語の原詩とイェイツの略歴をご紹介します。
The Lake Isle of Innisfree
William Butler Yeats
I will arise and go now, and go to Innisfree,
And a small cabin build there, of clay and wattles made:
Nine bean-rows will I have there, a hive for the honey-bee,
And live alone in the bee-loud glade.
And I shall have some peace there, for peace comes dropping slow,
Dropping from the veils of the morning to where the cricket sings;
There midnight’s all a glimmer, and noon a purple glow,
And evening full of the linnet’s wings.
I will arise and go now, for always night and day
I hear lake water lapping with low sounds by the shore;
While I stand on the roadway, or on the pavements grey,
I hear it in the deep heart’s core.
【Y・B・イェイツ (1865-1939)】
アイルランド・ダブリン生まれ、アイルランドを代表する詩人・劇作家。 世紀末から二十世紀にかけて活躍し、アイルランド文芸復興運動などに関わった。1923年ノーベル文学賞受賞。 「イニスフリーの湖島」は詩集『薔薇』The Rose(1893)に収録。