祈る詩[7]―T・S・エリオット2017.3.1
「灰の水曜日」 T・S・エリオット
なぜなら 二度と振り返ることを願わないのだから
わたしは願わないのだから
なぜなら 振り返ることを願わないのだから
もう この人あの人の才を羨み
そのようなものを求めようと求めたりしないのだから
(なぜ 年老いたタカが翼を広げねばならぬのだ?)
なぜ 嘆く必要があるのだ
この世のむなしい力を失ったとて。
なぜなら 二度と得たいと願わないのだから
この世の盛者の虚しい栄光を
わたしは思わないのだから
なぜなら わたしは知りえないと知っているのだから
ただ一つの真実の移ろう力を
なぜなら飲むことができないのだから
そこでは樹々に花が咲き泉が湧くとも もう二度となにもないのだから(第1部より〈後略〉)
(森山 恵 訳)
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「灰の水曜日」と呼ばれる祭日がある。2017年は3月1日に当たる。
この日から「四旬節」という、復活祭を迎えるための準備期間に入るのだ。
前日の火曜日が、ご存知の通り謝肉祭(カーニヴァル、マルディ・グラ=肉の火曜日)で、四旬節前に大いに肉を食べお酒を飲み、賑やかに羽目を外すのである。
(フェデリコ・フェリーニ監督の映画『青春群像』でも印象的に描かれていた)
翌日の灰の水曜日から一転、祈り、悔い改め、節制などのうちに過ごし、
46日後にイースター、つまり復活祭を祝うことになる。
(日曜日6日間を除く、40日間の斎日)
春の訪れとともに再生、復活を祝うのである。
灰の水曜日の儀式のハイライトは、
司祭の前に行列して、一人ずつ額に十字を切って貰うことだ。
それも灰で。
額に大きくバッテン…ならぬ、十字が印されるのだ。
「塵より出で、塵へ返れ」(創世記3章19節)
(remember you are dust, and to dust we shall return)の祈りの言葉と共に。
人は死すべき存在であることを忘れず、復活を信じ悔い改めよ、ということである。
子供の頃など、おでこに黒々と十字が描かれるのは特別な感じがして、
沈鬱というよりも、なんだかワクワクしたものだ。
かすかに灰の粒子がジャリッとする。
私は額が気になって手をやっては確かめるので、段々灰が広がっていく。
洗ってしまうのも勿体ない。その日一日、おでこを薄黒くして過ごすことになる。
「わ、Mちゃん、まだ灰がついてるよ!」
「おでこ黒―い!」など、笑い合っていたものだ。
「死」の意味はよくわかっていなかった。
それでも教会に通っていると、耳にタコができるほど日常的に聞く言葉で、
訳が分わからぬながら常に身近にある世界だ。
この世とは異なる世界、異なる価値観が存在するということを、
日々聞きながら育つというのは特殊なことかもしれない。
確かに教会の祭壇の奥や、地下聖堂の暗がりには、なにか違うものが潜んでいた。
さて、T・S・エリオット『灰の水曜日(Ash Wednesday )』はこの祭日に題名をとった、
「回心の詩」だ。魂の再生詩篇、「典礼詩」と呼んでもいいかもしれない。
それにしてもエリオットをどこからどう紹介しようか、迷ってしまう。
『荒地』の詩人、20世紀最大の詩人。これに異を唱える人はいないだろう。
どれだけの人がエリオットの詩に影響を受けただろうか?
ボブ・ディランにも、サイモン&ガーファンクルにも、デヴィッド・ボウイにもその痕跡は明らかだ。勿論、日本の「荒地」詩人たちも西脇順三郎もいる。
とにかく『灰の水曜日』の冒頭を読んでみよう。
「なぜなら 二度と振り返ることを願わないのだから
わたしは願わないのだから
なぜなら 振り返ることを願わないのだから」
この詩のキーワードは「振り返る(turn)」だ。
冒頭から幾度も繰り返される、「ターン(turn)」という単語がこの詩の要であり、
前へ前へと詩を「回転(turn)」させている。
旧約聖書「ヨエル書」2章12節に、
「主は言われる、『今からでも、あなたがたは心をつくし、
断食と嘆きと、悲しみとをもって私に帰れ』」
とある。この「帰れ」がturnである。
また新約聖書「マタイによる福音書」18章3節の
「心をいれかえて幼子のようにならなければ、
天国にはいることはできないだろう」
の幼子のように「なる」も「turn」である。
この詩は、過去と、現世的栄光、成功の決別から詩が始まるのだ。
神へ背を向ける(turn)ことから、幼子のように神へ向かう(turn)のである。
エリオットは1922年の『荒地』の成功以来、停滞に苦しんだといわれる。
「年老いたタカは もう翼を広げ」られないのだ。
(と言っても詩人、まだ40才程である…!)
懐疑と信仰に引き裂かれながら、魂の浄化を祈り額づく。
やがて詩篇は自己の魂を深く振り返ること、内省へ、
宗教的「回心」としてのturnへと劇的に展開していく。
ミサで唱えられる祈祷文の断片や、
「アヴェ・マリア」の一節、「我ら罪びとのために、今も、死を迎える時も祈り給え」
もそのまま引用されている。
エリオット最大の「振り返り(turn)」は
1930年に『灰の水曜日』が発表される3年前、
1927年、ユニテリアンからアングロ・カトリックへの改宗「(turn=conversion)」だろう。
エリオットは回心の過程を祈りの詩として結実させたのである。
今回引用したのは僅か15行だが、全体は6部構成、219行に渡る詩篇で、
エリオットらしい引用に次ぐ引用、言及、パロディ。キリスト教的図像。
大きな構成を持ち、鮮やかなイメージに溢れている。
もっと上手く紹介したかったが、書き切れない。
『灰の水曜日』で私が好きな箇所は、この後、第2部に出てくる。
『荒地』のことも書きたい。晩年の『四つの四重奏』のことも。
またの機会に譲りたいと思う。
ちなみに「灰の水曜日」は、ご存知の通り移動祝祭日である。
月齢によって移動するのだ。
毎年、今年の灰の水曜日は何月何日、聖週間や復活祭は何日と、教会カレンダーで確認する。フランスなどのカトリック国で手帖を買うと、月齢と共に明記されている。
最後にいつものように、
英語原詩と、T・S・エリオット略歴を記して終わりたいと思います。
Ash Wednesday T.S.Eliot
Because I do not hope to turn again
Because I do not hope
Because I do not hope to turn
Desiring this man’s gift and that man’s scope
I no longer strive to strive towards such things
(Why should the aged eagle stretch its wings?)
Why should I mourn
The vanished power of the usual reign?
Because I do not hope to know again
The infirm glory of the positive hour
Because I do not think
Because I know I shall not know
The one veritable transitory power
Because I cannot drink
There, where trees flower, and springs flow, for there is nothing again
【T・S・エリオット (1880-1965)】
アメリカ、セント・ルイスに生まれる。ニュー・イングランド出身の祖父はユニテリアン派の牧師で、この地に教会を建て、ワシントン大学の創立にも関わっている。厳格で倫理的家風であった。エリオットはハーヴァード大学を経て、1914年イギリスに渡り、1927年イギリスに帰化、アングロ・カトリックに改宗している。
1922年発表の『荒地(The Waste Land)』では、聖杯伝説から、インドの聖典、シェイクスピア、居酒屋のスラングまでをコラージュ的に貼り合わせ、詩の中に様々な声を響かせている。この革新的な手法で荒廃した都会の魂を描き、20世紀を代表する詩人となった。