野村喜和夫選詩集『閏秒のなかで、ふたりで』
A5判ソフトカバー装 100頁
野村喜和夫(のむら・きわお)は1950年埼玉生まれ、戦後世代を代表する詩人だ。つねにビビッドに現代詩の先鋒にあって現代詩をリードしている詩人である。その批評も翻訳もすぐれたものである。本詩集は、既刊20冊の詩集および未刊詩篇から、エロティックな詩ばかり21篇を集めて、楽しい選詩集を編んでみました。と「あとがき」にあるようにエロティックな選りすぐりのアンソロジーである。
ひとことで言えば、エロい詩集である。
どのくらいエロいかといえば、それは読んで貰うほかはない。
本詩集の詩はすべてピンク色で印刷されている。ゆえにブログにおいてもピンク色にしてみた。
平易な言葉がつぎつぎと向こうから飛びこんでくるような軽快さにおもわず一気に読んでしまい、最後にひやりとさせられる。まず言葉から言葉へのうねりがエロティックだ。そして、読み終わったあとに私たちは知るのである。エロティシズムとはそのうちに常にタナトスを内包していることを。
本詩集は全体が3つに分けられている。その章のそれぞれの見出しも面白い。
ⅰ 播くんじゃない、突き刺せ
ⅱ 性が生を越えてゆく
ⅲ 萌える未知のアシカビ
配列は時系列を無視して、われわれの性が個を超え時空を超えてひろがってゆくような流れが、なんとなくですけど、感じられるようにしました。(あとがき)
装幀は和兎さん。(ヘンな人である和兎さんは、こういう本は大好きとみえて楽しそうだった)
野村喜和夫さんは、いっさいお任せ下さった。
ピンクでいくと決めた。
あたらしいピンクのマット系の用紙にタイトルと名前は銀刷。
新製品なのでどう文字が刷られるかちょっと心配だった。
本文の活字の刷り色を表紙の色にあわせてピンクに。
見返しは春画を使用。
和兎さんはこれを使うことを強く望んだ。
わたしもこの春画は、すこし前に行われた「春画展」でみた春画のなかでも最も印象に残ったものである。
この春画のエロさは、女の太ももでもなく、男と女の絡まり合う姿態でもなく、薄目をあけた男の目なのである。つまり「視線」である。(このブログの写真だとちょっとわかりにくい。是非春画をみて確かめて欲しい)エロティシズムとは視線なのである。
扉。
表紙と同じ用紙をもちい、こちらは白インクで刷った。
やはり目がある。
本文の白ページにあたる各所には、春画を解体しいろいろな箇所をあえて粗く印刷。
これも和兎さんのこだわりである。
春画は前みかえしと後見返しに同じものを使用。
当初、和兎さんは、異なる春画を使うことを考えていたらしいのだが、それをやめて「視線」のみにした。
担当のPさんは、「詩はどれも面白かった」という。「一度読むと言葉が記憶されてしまう、やはり野村喜和夫さんは力のある詩人だと思った」と。そして
「現代詩はどうしても難解なところがあり、句読点や読点の置き方、改行の仕方、行の分け方、散文詩で書く意味、がわからない詩集があるけれど、野村さん詩の作品は、どれもそれが自然と納得いった。そしてさまざまの様式の詩の作品がある。だから、この詩集は「エロ」をテーマにした面白い詩集だけでなく、現代詩を書こうと思っている初心者の人が詩の書き方のお手本にしてもいい、そんな詩集だと思った」とPさん。
詩の修辞学をまなぶテキストとしても優れている詩集なのだ。
「あとがき」をふたたび紹介したい。
私はしばしば、エロい詩を書く詩人とされているようです。それを否定はしませんが、同時にまた、私の詩において、エロスの言葉は言葉のエロスと分かちがたく結びついています。性的興奮プラス詩的興奮。したがってこの選詩集は、生真面目な方々にも十分楽しんでいただけるはずです。
収められた21篇の詩はどれも多彩な光を放っている。
わたしはこの詩集は、「エロス的存在であるわたし」というものを言葉で実現していくものではないかと思ったのだった。
「閏秒のなかで、ふたりは」というタイトルも、エロティックな匂いが立ってくる。
(ふらんす堂「
編集日記」2016/7/28より抜粋/Yamaoka Kimiko)