祈る詩 [2]-ワーズワス2016.10.1
カレーの浜辺の夕暮れ
ウィリアム・ワーズワス
うるわしき夕暮れは 静かに広々として
聖なるこの時は 祈りに息を潜める
修道女のような静けさ。 大いなる夕日が
静寂のうちに沈みゆくこの時
天国の優しさが海を包みこむ。
聞いてごらん! 偉大なる「神」はいつも目覚め
その永遠なる働きで
雷のような波音を轟かせる—永劫に。
我が娘、私の傍らを歩む愛しい子!
たとえ厳粛な思いに動かされていなくとも
お前はありのままに神聖だ。
いつの日もアブラハムの懐に抱かれ
神殿の聖所に神を敬う存在なのだから
私たちが気付かぬ時も 神はお前とともにあるのだ。
(拙訳)
イスラエルはその日も灼熱だった。
連日の40度近い砂漠の気候に、私は熱中症気味でふらふらしていた。
太陽が真上から照りつけ、自分の影も輪郭がくっきり、黒々と見える。
エルサレム郊外オリーブ山の中腹から、私は街を見渡していた。
ここが聖書の舞台となった、まさにその場所だ。
「エルサレム旧市街の黄金門は…第一神殿があった場所は…」
解説とともにガイドさんがあちらこちら指差す。
今日ご紹介する「カレーの浜辺の夕暮れ」の最終連に現われる「神殿」は、
このエルサレム神殿を指しているのだ。
ワーズワスはイギリス・ロマン派を代表する詩人で
彼の詩は、私たちが「ロマン派」と聞いてイメージする世界そのものだ。
湖畔に咲き乱れる水仙、大空に掛かる虹。
緑の田園に囀る小鳥たち。
身近な自然の中に、神秘やヴィジョンを見出す詩人である。
「カレーの浜辺」は
ワーズワスの中で、最も宗教的響きを持った作品と言われている。
3行目(原詩2行目)に現われる「修道女のような静けさ」の比喩も意表を突く。
作品の背景を少しお話しすると、
1770年イギリス生まれのワーズワスは、1789年のフランス革命思想に共鳴し、
2年後の91年にフランスに渡っている。21歳の時である。
しかし「9月大虐殺」の現実に絶望し、帰国してしまうのである。
フランスの恋人アネットを捨てて。
「カレーの浜辺の夕暮れ」は、その10年後にフランス・カレーを訪れ
アネットと、娘のカロリーヌと再会したことがモチーフになっている。
第3連に現われる「我が娘」は、当時10歳になっていた少女カロリーヌなのだ。
この詩を書く前も後も、父らしいことをあまりしなかったワーズワス。
けれども、美しく夕陽の沈む海を背景として、神々しいほどの少女に、
「私の傍らを歩む愛しい子!」と、父としての愛情を溢れさせているのだ。
「神はお前と共にある(God being with thee)」の最終行の言葉は
「神があなたと共にありますように=さようなら(God be with you=Good bye)」
にも通じる。
父なる神が、気付かぬ時もいつも共にあるように、
父としてあなたを見守っているよ、またあなたたちを置いて行ってしまうけれども…
と娘に語り掛けているのだろう。
アネットやカロリーヌの気持ちを思うと、同じ女性としては
どうしても詩人の身勝手さが思われるけれど、
この瞬間のワーズワスの迸る愛情に、心動かされる。
あの日、私がオリーブ山から見下ろしたエルサレムの街に、もう神殿はなかった。
ほんの一部「嘆きの壁」が残るだけ…。
ワーズワスもエルサレムを訪れたことはないのだ。
詩人の想像力が、詩の中に神殿を築き、その聖なる場所に最愛の娘を置いて謳っている。
壮大に謳い上げるワーズワスの詩を読んでいると、詩人と共に昂揚してくるものがある。
「God be with you=Good by」神があなたと共にありますように、
ワーズワスの祈るような
響きが私たちの心に残る。
最後に、原詩とワーズワスの略歴をご紹介します。
Evening on Calais Beach
William Wordsworth
It is a beauteous evening, calm and free;
The holy time is quiet as a Nun
Breathless with adoration; the broad sun
Is sinking down in its tranquility;
The gentleness of heaven is on the Sea:
Listen! the mighty Being is awake,
And doth with his eternal motion make
A sound like thunder—everlastingly.
Dear child! dear girl! that walkest with me here,
If thou appear untouch’d by solemn thought
Thy nature is not therefore less divine:
Thou liest in Abraham’s bosom all the year,
And worshipp’st at the Temple’s inner shrine,
God being with thee when we know it not.
【ウィリアム・ワーズワス(1770-1850)】
イギリス、湖水地方に生まれる。ロマン派を代表する自然詩人。
古典主義から離れ、やさしい言葉で自然を歌った。
「カレーの浜辺の夕暮れ」(1802年)は、この頃多く書いたソネット詩の代表作。
1807年『詩集』に収録。その他に詩集に『序曲(The Prelude)』、サミュエル・テイラー・コウルリッジとの共著詩集『抒情民謡集(Lyrical Ballads)』など。