祈る詩[10]―D・G・ロセッティ2017.6.1
「パリサイ人シモンの戸口に立つマグダラのマリア」
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
「髪の薔薇飾りを 君はなぜ投げ捨てるのだ?
いや、君のすべてが薔薇だ――その花飾りも唇も、頬も。
いや、僕らの行く先はこの家ではない――あの饗宴の館だ。
ほらご覧よ、みな口づけしながら入っていく。さあ、こっちへおいで。
僕ら二人 愉しい愛の一日を過ごそう、
夜が愛の囁きを 僕らの耳元で語る時まで。
ああ、愛しい女――君はまだつまらぬ気まぐれを?
さあ、僕が君の足に口づけしたら その階段から足は離れるだろう。
「ああ、離して!あなたには見えないの、私の〈花婿〉が?
私を神へと引き寄せるあの方の顔が? 私の接吻は、髪は、
あの方の足をぬぐう為のもの、私の涙を今日求めておられる――ああ!
いずれいつか どこかで あの方の血に濡れた足を
私がかき抱く時が来る それをどんな言葉で伝えればいいの?
あの方は私を求め、呼んでいる、愛している。ああ、離して!」(森山 恵 訳)
今月ご紹介する詩人は、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、
前回取り上げたクリスティーナ・ロセッティの兄である。
ラファエル前派の画家としてご存知の方も多いだろう。
妹クリスティーナは想像力に富み、熱烈な宗教心の持ち主であったが、
兄のダンテ・ゲイブリエルはどんな人物、どんな作風だろうか?
二人は一見、正反対の人生を送ったように見える。
ラファエル前派の画家たちは超写実的な表現で、ヴィクトリア朝画壇に革新運動を興す。
なかでもロセッティは、Stunners(目も眩む美女たち)をモデルとし、彼女らと複雑な男女関係結んだことなどで、スキャンダルを呼ぶ。
モデルの一人で妻となったシダルは、精神を病み32歳で死去。
自責の念に駆られた彼は、なんと自作の詩稿の束を妻と共に埋葬してしまう。
ところが7年後、墓を掘り返して詩稿を回収すると、詩集として出版。
40代からはアルコールや薬物に溺れて精神のバランスを崩し、
苦悩の末53歳の生涯を閉じている。
人間関係も芸術活動も、なんとも濃密な人生だ。
父はイタリア・ナポリ王国の政治革命家でもあったのだから、その血筋だろうか。
ラファエル前派の衝撃的絵画の革新。ロセッティの詩と絵画の輝き、私生活。
すべてが相俟って特異な光彩を放つ。
純粋に「テクスト論」的読みを追求するなら、
このような属性は排除して、詩や絵画のみを客観的に鑑賞すべきだろう。
けれども私は人間そのものに惹かれるし、
どうしてもそのイメージを作品から取り払うことができない。
であるから、やはり彼の人生を念頭に、
「パリサイ人シモンの戸口に立つマグダラのマリア」を読み返す。
タイトルの通り、マグダラのマリアを主役に、回心の瞬間を劇的に捉えた詩である。
同タイトルの絵画作品の為に書かれたソネットだ。
主題となるのは、ルカ福音書の次の場面。(7章36-50)
イエスが、パリサイ人シモンの家に招かれ、食事のテーブルにつく。
そこへ「町の罪の女であったもの」が香油を持って部屋へと入ってくると、
「まず涙でイエスの足を濡らし、自分の髪でぬぐい、そしてその足に接吻して、
香油を塗った」。
イエスの足下に額づき、罪を悔いて改悛し許しを与えられる、という有名な逸話である。
ところで皆様は、マグダラのマリアと聞くとどんなイメージを浮かべるだろうか?
聖書の中には、マグダラのマリアとおぼしき女性が何度か登場する。
例えばキリストの受難と復活の証人となる、聖女マグダラのマリアである。
またもう一人は、先のルカ福音書に現われる、改悛する「罪の女」だ。
「香油を塗る女」「長い髪」「罪の女」は芸術家の想像力を掻き立て、マグダラの名前と結びつけられて、マグダラ像を造り上げてきた。
イタリアの画家ティツィアーノ、さらにはカラヴァッジョの「マグダラのマリア」は官能的で法悦の表情を浮かべている。
白い肌も露わに、胸に豊かな金髪が纏わる。
ロセッティのマグダラのマリアもこの「罪の女」を書いた作品である。
今まさに享楽の薔薇の花を投げ捨て、階段に足を掛け、回心の「戸口」「敷居」に立っているのだ。イエスの足下に身を投げ出す直前の場面である。
第1連、愛人の男は、彼女を愛と快楽の一夜へと誘う。
戸口を腕で塞ぎ、イエスのもとへ向かおうとするマグダラを遮る。
第2連、しかしマグダラの足はもう、パリサイ人の家の階段に掛かっている。
私の〈花婿〉、「あの方」、つまりイエスへと引き寄せられ、
誘惑を振り払って戸口を潜ろうとしているのだ。
画面右手、家の中に、光に囲まれたイエス・キリストの頭部が見える。
しかも彼女は「血に濡れた足を 私がかき抱く時が来る」とイエスの受難を予見する。
豊かな髪と厚い唇の、肉感的女たち。
ロセッティ絵画の前に立つと、そのまばゆさに女である私も「目が眩む」。
しかし耽美的で官能的、頽廃的なものと同時に、
魂の神秘や超越的なもの、天上的なものを希求する芸術家の姿が垣間見える。
代表作「ベアタ・ベアトリクス」の画面にある幻想的な光の靄や、聖霊の象徴である鳥、女の陶然とした表情には、この世ならぬものが感じられる。
(ダンテ『新生』にもとづく作品。自分の名前にもなったイタリアの詩人ダンテへの思い入れは強く、『神曲』『新生』などを主題に多くの作品を残している。)
ソネット「パリサイ人シモンの戸口に立つマグダラのマリア」の、
第1連、第2連の2つの声は、ダンテ・ゲイブリエルの2つの肉声として響く。
快楽と享楽に向かう滾る情熱と、聖なるものへ強烈に惹かれる霊性。
聖なるものと俗なるものに引き裂かれ続けた、詩人の内奥の声である。
しかし結局、宗教的葛藤は母や妹クリスティーナに託したかの如く、ダンテ・ゲイブリエルは神経を病みつつ、芸術とともに死へと向かっていく。
さて、ロセッティ絵画のような華やかなマグダラの一方、
もう一つの聖女マグダラ像も、忘れ難く思い出される。
ギリシャ神殿様式のファサードが目を惹く、パリ・マドレーヌ教会である。
以前パリに滞在した時、ホテルが教会のすぐ横手で、10日程毎日のように通っていた。鐘の音もよく聞こえた。
マドレーヌとはむろん、フランス語でマグダラのマリアのことである。
中央祭壇奥に、マグダラのマリア像が優美な姿を見せていた。
天使の大きな翼に囲まれ、今、天に上げられようとしている。
地上の苦しみから解き放たれた彼女は、なんと清らかで静謐だったろう。
パリの街の喧噪とともに、心に強く残っている。
二つのマグダラの姿。
兄ダンテ・ゲイブリエルと妹クリスティーナ。
どれも合わせ鏡のように、複雑に照らし合っている。
影があるからこそ光があり、罪があるから救いがある。
そして人間に安全地帯はなどなく、ロセッティのマグダラのマリアのように、
私たちはいつも「戸口」「敷居」という「識域」「境界」に立っているのだ。
最後に、原詩をご紹介します。
イタリア系のロセッティらしく、イタリアの詩人ペトラルカ様式のソネット(Petrarchan sonnet) になっている。
ABBA ABBA CDE CDE の脚韻、弱強五歩格が基調。
前半8行(Octave)で、テーマ・問いを導入、
後半6行(Sestet)で、その問への応答を提示するという形式である。
Mary Magdalene at the Door of Simon the Pharisee
Dante Gabriel Rossetti
“Why wilt thou cast the roses from thine hair?
Nay, be thou all a rose,—wreath, lips, and cheek.
Nay, not this house,—that banquet-house we seek;
See how they kiss and enter; come thou there-
This delicate day of love we two will share
Till at our ear love’s whispering night shall speak.
What, sweet one,—hold’st thou still the foolish freak?
Nay, when I kiss thy feet they’ll leave the stair.”
“Oh loose me! See’st thou not my Bridegroom’s face
That draws me to Him? For His feet my kiss,
My hair, my tears He craves to-day:—and oh!
What words can tell what other day and place
Shall see me clasp those blood-stained feet of His?
He needs me, calls me, loves me: let me go!”
(1858)
【ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-1882)】
19世紀半ばにイギリスで興った絵画の革新派「ラファエル前派」の中心的存在であった。道徳的伝統的価値が重んじられたヴィクトリア朝において、彼らの画風、人間関係はスキャンダを呼んだ。1870年『詩集』1881年『バラッドとソネット』など。日本では上田敏『海潮音』に「心も空に」等が収められている他、蒲原有明が熱心な紹介者であった。