エッセイ集『空を流れる川――ヒロシマ幻視行』刊行記念 (5)正田篠枝の仕事2010.11.4
講演●ヒロシマの声に耳をすます
野木京子+映画上映「チェチェンへ」「生きていてよかった」「アナタハン」
2010年11月4日
同志社大学寒梅館ハーディーホールにて
主催・同志社大学今出川校地学生支援課
共催・studio malaparte
(5)正田篠枝の仕事
正田篠枝さんという人がいました。この人は歌人です。短歌を書いていました。童話集もあります。35歳のときに、爆心地から1.7キロの自宅で、被爆しています。その後54歳のときに、原爆症によるガンのために亡くなっています。54歳まで生きてらしたわけですけれども、死の恐怖にずっと襲われていたのだろうなと思います。
これが『さんげ』という、この人の歌集です。私が持っているのは、もちろん本物ではなくて、復刻版です。これもなかなか入手が難しい本だったのですけれども、友人が私にプレゼントしてくれました。この正田篠枝さんは、とても早い時期に、原爆について短歌を書いています。原爆の翌年にもう発表を始めています。この歌集は昭和22年に私家版として出ています。原爆の翌年に、雑誌に発表して、それを昭和22年に私家版歌集として出したのですね。
後に1962年に、『耳鳴り』という「原爆歌人の手記」という副題の本も出版しています。その『耳鳴り』も、私は非常におもしろいなと思って読んだのですけれども、大変に入手が難しい本です。よい本なので、機会がありましたらぜひ、大きい図書館でひょっとしたらみつかるかもしれませんので、読んでみてください。
ところで、その1962年の『耳鳴り』という手記のなかで、正田さんは自分が歌集『さんげ』を出版したときのことについてこう書いています。
原子爆弾という名前を知らされました。このため即死され、またあとから亡くなられたひとをとむらうつもり、生き残って歎き悲しみ、苦しんでいる人を、慰めるつもりで歌集『さんげ』をつくりました。
その当時のGHQは検閲が厳しく、見つかりましたなら、必ず死刑になるといわれました。死刑になってもよいという決心で、身内の者が止めるのに、やむにやまれぬ気持で、秘密出版をいたしました。
無我夢中で、ひそかに泣いている人に、ひとりひとり差し上げさせていただきました。
GHQというのは、若い方もいらっしゃいますけれども、日本を占領していたアメリカ軍の総司令部のことですね。占領軍に知られたら、本当に死刑になったかどうかは、私にはよくわかりません。これはご本人が後からそういう伝説を作ったんだと言われることもあります。ただ本人や家族が、その当時死刑になるかもしれないと思っていたとしても、私は戦後すぐのことは知りませんけれども、無理はなかったかもしれないと思います。戦後直後のアメリカ軍による言論の取締りは、プレスコードと言いますけれども、非常に厳しかったと聞いています。アメリカ軍は、原爆の被害がここまで酷かった、残酷だったということを、日本国外にもそうですけれども、日本国内に、どうしても知らせてはならなかったわけですね。
この人の、死刑覚悟で発表したと書いている短歌を、少し読みたいと思います。『さんげ』の、一部を拾い読みします。映像的な短歌だと思います。恐ろしい映像ですけれども。
木ッ葉みぢん 崩壊の中に 血まみれの まつ青の顔 父の顔まさに
鈴なりの 満員電車 宙に飛び 落ちてつぶれぬ 地にペシャンこに
炎なか くぐりぬけきて 川に浮く 死骸に乗っかり 夜の明けを待つ
ズロースもつけず 黒焦の人は 女(おみな)か 乳房たらして 泣きわめき行く
石炭にあらず 黒焦の人間なり うずとつみあげ トラック過ぎぬ
子と母か 繋ぐ手の指 離れざる 二つの死骸 水槽より出ず
筏木の ごとくに浮かぶ 死骸を 竿に鉤をつけ ブスッとさしぬ
酒あおり 酒あおりて 死骸焼く 男のまなこ 涙に光る
可憐なる 学徒はいとし 瀕死のきわに 名前を呼べば ハイッと答えぬ
こういう短歌です。正田篠枝という人は、自分が体験したこと、見たことを歌にしていきましたが、それだけではなくて、人にから聞いたことも歌にしていったのですね。「炎なか くぐりぬけきて 川に浮く 死骸に乗っかり 夜の明けを待つ」。これは正田さんの義理のお姉さんが、泳げない人だったそうなのですけれども、原爆を受けた日の夜は、炎に追われて川に入ったのだと思うのですが、誰かの遺体に乗ってなんとか一晩生き延びた。そのまま遺体に乗って、流されて、橋に引っかかったところを助け上げられた。そうつぶやくように話して、そのお義姉さんは、8月7日に息を引き取った。そのお義姉さんから聞いた話を、歌に作ったわけですね。
これが『ピカッ子ちゃん』という、正田さんが書いた童話集です。正田さんが亡くなった後に刊行されています。私はこの童話集がとても好きです。
「ピカッ子ちゃん」にも、原爆の悲惨な情景が、さっきの短歌のように映像的に、的確に書かれていて、たとえばこんな文もあります。読むのが恐ろしいような文ですけれども。
勤労動員の女学生が、川のがんぎ(船着き場にある階段)のところでかさなりあって死んでいました。
みんな目玉がとびでて、はなの下のほうまでたれさがっていました。
川の中には、いかだのように、死がいがういていました。
兵隊さんが、さおの先へかぎをつけて、死体にプスッとさしては、ひっぱりよせて、ひきあげています。
あちらでもこちらでも、死がいをやいていました。
人間をやくにおいで、いきができません。土橋のあたりで、電車がペッシャンコにつぶれていました。
人間の世の中に、このようなことがあっていいのでしょうか。
恐ろしい情景が描かれているのですけれども、この童話集全体を読むと、なんというか、優しい世界観に満ちているように思うのです。一部分ではわからないかもしれませんけれど、最後のほうの文です。
ピカッ子ちゃんとおばさんは、その後だんだんとからだのぐあいがわるくなって、ふたりとも、おなじ日につめたくなりました。
つめたくなったふたりのからだには、むらさき色のはんてんが、たくさんうかんでおりました。
このものがたりを書きましたわたくしは、比治山のよくみえる、広島の川のほとりにすんでいます。
比治山の上の夜空にかがやく、三つの星をみつめるたびに、ピカッ子ちゃんとおばさんの、やすらかな死にがおを思いだします。
まるで、これでよいのですというように、ほほえみをうかべているようにみえました。
三つの星の中に、一つちいさくピカッピカッとひかる星があります。ピカッ子ちゃんだろう、と思います。
物語はもう少し続いて、やがて静かに閉じていきます。私は、この人の短歌や童話を読むたびに、正田さんのだけでなく大勢の人の、心の声が聞こえるように感じるのです。家族を亡くした人、傷ついた人の痛みを、正田さん自身も非常に傷ついているわけですけれども、ほかの人の痛みを我が事のように引き受けて一緒に苦しみ悲しむ、そういう姿勢であったように、私は読むたびに思います。その壮絶な優しさといってもいいようなものに、魅かれるのですね。
今日のイベントのチラシを作ってくださった方が、こういう文を引用してくれたのです。私がエッセイ集に書いた文なのですけれども。
「命を大切に」という教えも大事だけど、「優しさを大切に」という教えを子どもたちに、そして大人たちに伝えたい。もちろん自分にも。
これは「ピカッ子ちゃん」を読んで、私が感じたことを書いたエッセイの中の文章です。
正田篠枝さんという人は、優しさというもので原爆という大きな暴力に立ち向かおうとしていた、と私には思えるのです。優しさにどれだけの力があるのかはわからないけれども、人間にはそれしか信じることができない、と言ってもいいのかもしれません。
機会があったらぜひ皆さんも、正田篠枝さんの本をお読みになってください。お読みになってくださいと言いましたが、正田さんの本は全部、絶版になっています。入手することはできません。短歌は、原爆関連の本や、ほかの本に全篇収録されています。収録されてはいますが、独立した一冊の歌集として入手できるようになるといいのに、と思います。『ピカッ子ちゃん』は、お子さんをお持ちの方は特に、ぜひ読んでいただけたらいいなと思うのです。すばらしい童話集だと私は思います。『ピカッ子ちゃん』は、探すと図書館に入っていると思いますし、アマゾンなどで中古の本を買うこともできます。『耳鳴り』という手記の本も大変好きなのですが、この本は探すのが大変ですけれども、大きな図書館でみつかるかもしれません。
正田さんの著作は、復刊されて、たくさんの人が簡単に手に入る本になってほしいなと思います。残念に思います。亀井文夫の『生きていてよかった』も非常にいい映画なのに、観ることが難しい。それと同じように、正田篠枝さんの本も読むことが難しいのですね。そういう時代なのかもしれません。