澤好摩さんを偲ぶ会2023.11.11
澤好摩との思い出を語りませんか。澤好摩がうらやむほどの時間を過ごしませんか。にぎやかな集まりが好きだった故人のために、俳句を愛する方々がつどう会を開催しようと存じます。
司会は山田耕司さん。
ずっと一緒に句会をしてきました。若いときからはじめて澤さんがこれまで何回句会をさいれたかわかりませんけど、澤さんがわたしたちに自慢するタネを下さいました。それは澤さんの最後の句会が、わたしたちの小さな句会でご一緒していただいた句会だったということです。
たくさんの思い出とチャーミングな時間を残して澤さんは逝った。それは生粋の下町っ子である澤さんの最後の優しさだったかもしれない。これまでありがとうございました。いずれまたどこかでお会いしましょう。
対面で人間が人間と出会うことが大切だと今日思いました。30年振りに澤さんがこうして合わせてくださったと思っています。21歳ぐらいのときに髙柳重信に「もっと若い人たちとやりなさい」と澤さん紹介してもらいました。髙柳重信さんは、40年まえの7月8日に亡くなっており、澤さんはこの7月7日七夕になくなった。これも縁なのでしょうか。澤さん提案の「袋廻し」で鍛えられ、それによって俳句は瞬発力が必要だと、まなんだような気がします。近年日本の俳句が萎縮というか脆弱というか、憂慮すべきことであると思います。海外の俳句とは全然ちがう、日本の俳句はお遊びになっていると思います。
澤さんは、わたしにとってかけがえのない人でした。へこたれている時や心が萎えてしまったときに電話をすると必ず慰めてくださった。澤さんは、選句眼がおありなので、選句の目を信頼しておりました。句集制作のときも見ていただきました。わたしは澤さんの俳句もまた素晴らしいと思っています。
わたしは摂津幸彦の「豈」に入っていたのですが、ある日澤さんより「『豈』なんかに俳句をちゃんと勉強するためには、「未定」にはいらなくてはダメだよと言われ、そうかと思い「未定」に入りました。その後で摂津さんに叱られたんですが。。
一年ほど前に私が、最近の澤好摩の作品には既視感があり、綺麗にまとまつてゐるだけではないかと批判的に述べたところ、長文の反論が来た。たかだか十七音程の音数の詩では、よほど奇を衒はない限り既視感と無縁でゐられるはずがない。だから既視感を離れることを主眼にするなといふのである。じつにささやなところに新しい視点や切り口が潜んでゐる。発想を転換し既視感を脱するのではない。既視感の範疇にとどまると見えつつも、そこに自らの視点や切り口を用意することで停滞を脱却するのだ、とじつに丁寧な反論であつた。(以下略)
「円錐」99号
拙いものではあれ、澤さんが生きていれば多少なりとも喜んでもらえたはずだが、それもかなわなくなった。しかし、じつのところさほど残念に思っているわけでもない。酒と旅と友だちが何より好きだった人が、酒で病気になることもなく喜寿を過ぎるまで元気に過ごし、友だちに会い旅に出、陽気に飲んで転んで死んだという事実、それもあのほとんど歯の無くなった口で、「幸せ、幸せ」と言いながら死んだという事実が惹起するのは、まずみごとだという思いがあって、その思いの分量は哀しみの分量を少しばかり上回っている。前置きが長くなった。そろそろ本文に入りたい。以下、澤好摩が残した五冊の自選句集に所収の句を、掲載されている順序で鑑賞してゆく。最後の二句のみ、第五句集以後の近作である。