エッセイ集『空を流れる川――ヒロシマ幻視行』刊行記念 (2)本川小学校の校庭で2010.11.4

 

講演●ヒロシマの声に耳をすます
野木京子+映画上映「チェチェンへ」「生きていてよかった」「アナタハン」

2010年11月4日
同志社大学寒梅館ハーディーホールにて
主催・同志社大学今出川校地学生支援課
共催・studio malaparte

(2)本川小学校の校庭で

hiroshima02

 広島に住んでいたときのことをお話したいと思います。2年間住んでいただけです。2年間というのは非常に短い時間ですが、その短い間に、とても濃い時間が流れていたように感じます。空から、斜めに光が射し込んで、私の心と体を貫いたような、消えがたい消印を残している、そういうふうに思います。これはアメリカの詩人のエミリ・ディキンソンという人の言葉をちょっと借りて言っていますけれども。どうしても忘れることができない、そういう時期です。
 私たちはみんな多かれ少なかれ、核戦争に対する恐怖心を抱いて生きているのだろうと思います。私自身、世界が核戦略体制に覆いつくされていることを、中学生のときに初めて気が付いて、怖ろしくて、眠れなくなった時期がありました。短い間でしたけれども。そういうふうに、私たちは核戦争に対する恐怖心を、多かれ少なかれ、ぼんやりとでも抱いているわけだけれども、でも毎日、原爆のことを思ったり、思い出したりしているわけではないと思います。
 ところが、広島で暮らしていたときの私は、毎日原爆のことを思っていたというか、日常生活を送る日々で常に思い出さざるを得なかったのです。私はたまたま引越しが子どものころから多かったので、いろんな都市に住んでいたのですけれども、ほかの都市に住むことと、広島に住むことはまったく違うような印象を持ちました。日常生活の中に原爆の傷跡が入り込んでいるような気がしたのです。そういうのは、もしかしたら地元の人にとっては、当たり前のことかもしれないけれど、私は本当に驚きました。
 住んでいた家はたまたま、原爆ドームから西の方向へ600メートルくらいのところでしたけれども、たとえば近所の神社を見に行くと、黒ずんだ感じの石造りの鳥居がある。古い鳥居だなと思って近付くと、「これは被爆鳥居です」と書いてある。そして、川沿いの遊歩道を歩いていると、思いがけないところに慰霊碑があちこちにある。観光客も来ないようなところにぽつんぽつんと慰霊碑がある。町内会の慰霊碑だったり、中学校や高校の慰霊碑だったりします。慰霊碑が立っているということは、その場所で、その人たちがたくさん亡くなっているということなのですね。町内会の碑だと、川沿いのその場所に、その町内の犠牲者のたくさんの遺体を一箇所に集めて、火葬して埋めた場所、供養した場所ということなのだろうと思います。
 広島は路面電車が走っています。今は走っていないかもしれないけど、私が住んでいたときには、「被爆電車」というものが走っていました。私としては、仕事に行くために、いつもどおり路面電車に乗っただけなのに、不意打ちをくらったように思うわけですね。乗った途端に何か気配が違う。そうすると運転席の後ろに「被爆電車です」という説明が書いてある。原爆で死んだ馬の碑も、たまたま歩いていてみつけたことがありましたし、被爆樹木という、原爆の熱線と爆風を受けて、倒れそうになって、あるいは燃えて、それでも再生して生き延びて今も立っている樹木がたくさんあります。その被爆樹木の声を聴くことはできないけれども、つい、その声を聴きたい、そんなふうに思ってしまいます。
 こうやって話しているときりがないけれども、一番忘れられない経験は、家の近所の、学区の小学校を見に行ったときのことでした。原爆ドームの、川のすぐ向かい側にある本川小学校という小学校です。爆心地に近い小学校だということは知っていたけれど、たまたま訪ねたら、子どもたちが楽しそうに走り回って遊んでいる。子どもたちが元気でいいなあ、なんて思いながら、私は子どもが好きだから、眺めていると、立っている私のすぐ横に説明板があって、それを読むとこう書いてあったのですね。
「……焼け果てた校舎は、被爆者の救護所にあてられ、校庭には死体の山が築かれました」。
 その説明板を読んでいる私の前で、子どもたちが楽しそうに遊んでいる。そうすると、見えてくる風景が、今の校庭と、かつて死体の山であった校庭と、二重に重なっているように見えてしまう。目の中で風景が揺れてくると言ってもいいかもしれないですし、60数年の時間の経過が、私の中で重なり合ってきてしまうと言ってもいいかもしれません。
 そういう目に見える原爆の傷跡が、あちこちにあって、散歩に行ったり、仕事に行ったり、あるいは何かの用事で出たりするたびに、そういうものに不意に出会う。探し歩いて出会ったのではなくて、歩いていたらたまたま見つけてしまう。目に見える痕跡に、いちいち私はうろたえていたのです。ところがある日、もっと本質的な原爆の傷というのは、どうも目に見えない地面の下に埋まっているらしいということに気が付きました。それに気が付いたことは、私にとって、もっと大きな衝撃だった。こういうことがあったのです。

 

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