エッセイ集『空を流れる川――ヒロシマ幻視行』刊行記念 (4)原民喜「原爆被災時のノート」2010.11.4

 

講演●ヒロシマの声に耳をすます
野木京子+映画上映「チェチェンへ」「生きていてよかった」「アナタハン」

2010年11月4日
同志社大学寒梅館ハーディーホールにて
主催・同志社大学今出川校地学生支援課
共催・studio malaparte

(4)原民喜「原爆被災時のノート」

hiroshima04

 同じころ、平和公園の中に、原民喜の詩碑があることに気付いたのです。私は学生のころから原民喜の「夏の花」を読んでいたし、広島に越してからは関心を持って読んでいたのだけれども、不勉強だったのが一番の理由ですが、民喜の詩碑があることにしばらく気付かなかったのです。原爆ドームのすぐ後ろ側で、なにか、ちょっと寂しいような。寂しい、というより、低い姿で立っているように私には思えたのです。ぽつねんとして、空間の隙間に隠れているような、そんな感じがしました。観光客も気付かずに通り過ぎるかもしれません。低く、必死に何かに耐えている、私はそんな印象を受けました。
 原民喜について話を進めたいと思います。原民喜は、広島市中区の幟町で生まれました。そこに実家があるわけですね。そのあたりには今、幟町カトリック教会の世界平和記念聖堂という有名な聖堂があります。爆心地からの距離は1キロです。そこに生れて実家がある。民喜はその後、東京で文学者として活動しますが、戦争中は奥さんと一緒に千葉県に住んでいました。民喜は、奥さんのことを非常に愛していた。けれども、原爆の前の年、昭和19年秋に、その奥さんは病気で亡くなってしまう。昭和20年の1月に、奥さんの骨壷を抱いて、原民喜は広島の実家に戻ってきた。そして8月6日に原爆にあうわけですね。爆心地から1キロというと、外にいて直接原爆をあびた人というのは、ほとんど即死か、あるいは大やけどを負って亡くなっていた距離です。原民喜は家にいて、お手洗いの中にいたために、奇跡的に助かります。
 その後、どういうふうに逃げたかというと、民喜は壊れた家から妹さんたちと逃げ、近くの川へ避難し、その後別の場所へ移動し、二日間野宿をします。翌々日にお兄さんたちと一緒に、広島市の郊外の村へと逃げていく。逃げていく途中で、小学校一年生の甥御さんの遺体もみつける。お兄さんの子どもさんですね。爆心地そのものは通過しなかったけれども、爆心地のすぐ近くを通る。 そこでさらにおびただしい遺体を見る。そういうふうに郊外へと逃げていった人です。
 この人は、家から逃げるときに、手帳と鉛筆を持っていたのです。私はよく知らないけれど、非常用持ち出しの荷物に入れていたのかもしれません。
 驚くべきことに、と言っていいと思うのですけれども、逃げて野宿をしながら、自分が体験していること、目撃したこと、一言で言うと惨劇ですね、それをリアルタイムで手帳に記録していったわけです。それは「原爆被災時のノート」と呼ばれています。
 そういうのを書いたというのは、そうとう肝が据わっていた人なのかというと、そんなことはなくて、原民喜は非常に繊細な人だったと言われています。透明感があって、美しい文章を書いた人です。そのような文学者が、あの日、原爆を受けて、そして被爆しながらも生き延びて、そのことを書き綴ったわけですね。そのノートに書いた記録をもとにして、その後、有名な「夏の花」などの原爆三部作や、小説や詩を書いていきます。奇跡といってもいい貴重な仕事を残してくれた作家だと思います。今を生きる私たちにとって、財産といってもいいのではないかと思います。
 お配りしましたプリントに、「原爆被災時のノート」のコピーを載せたのですが。土曜美術社から今年新たに編集されて出た『原民喜詩集』に、カラー印刷で載っていますので、ご覧になってみてください。これはモノクロに写っていますけれども、茶色っぽい色の手帳です。プリントでは2ページだけ載せていますけれども、12ページにわたって、カタカナでびっしり記録が書かれています。少しだけ読ませてください。

8月6日8時半頃
突如空襲 一瞬ニシテ
全市街崩壊
便所ニ居テ頭上ニサクレ
ツスル音アリテ頭ヲ打ツ
次ノ瞬間暗黒騒音
薄明リノ中ニ見レバ既ニ
家ハ壊レ、品物ハ飛散ル
異臭鼻ヲツキ眼ノホトリ
ヨリ出血、恭子ノ姿ヲ認
ム、マルハダカナレバ服ヲ探
ス 上着ハアレドズボンナシ
達野顔面 ヲ血マミレニシテ来ル

江崎負傷ヲ訴フ 座敷ノ
縁側ニテ持逃ノカバンヲ拾フ
倒レタ楓ノトコロヨリ家屋ヲ
踏越エテ泉邸ノ方ヘ向ヒ
栄橋ノタモトニ出ズ、道中
既ニ火ヲ発セル家々アリ、
泉邸ノ竹薮ハ倒レタリ ソノ中
ヲ進ミ川上ノ堤ニ遡ル、学
徒ノ群十数名ト逢フ、ココニ
テ兄ノ姿ヲ認ム、向岸ノ火ハ
熾ンナリ、雷雨アリ、川ヲミテハ
キ気ヲ催ス人。川ハ満潮 玉
葱ノ函浮ビ来ル、竜巻
オコリ 泉邸ノ樹木空ニ
舞ヒ上ル、カンサイキ来ルノ
虚報アリ、向岸モ静マリ
向岸ニ移ラントスルニ河岸ニハ

爆風ニテ重傷セル人、河ニ
浸リテ死セル人、惨タル風景
ナリ。(ココマデ7日東照宮野
宿ニテ記ス。……

(原民喜「原爆被災時のノート」)

 長いのでここまでにしておきますが、これは逃げて、すぐその日の記録です。書かれたのは翌日7日ですが。その後ますますノートにはたくさんの死者が出て、苦しむ人々の声も書かれていて、恐ろしい情景が記録されています。中ほどに原民喜は、こういう一文も書いています。

我ハ奇蹟的ニ無傷
ナリシモ、コハ今後生キノビテ
コノ有様ヲツタヘヨト天ノ命
ナランカ。……

 奇跡的に生き延びたのは、書き続けろという天からの命令なのかと、そう言っているのです。そうはいっても、恐ろしい状況の只中にいて、その有様を書き続けるというのは、なかなかできることではないと思うのですね。たとえば私たちが原爆にあって、もちろん原爆にあった人たちは、そのときはこれが原爆だとはわからないだろうけれども、わからなくても大変な惨事だということはわかる。そのときに夢中で逃げる。逃げているときは、民喜も書きながら走っていたわけではないのですけれども、ひとまず逃げ延びて、野宿をします。そのときに手帳を出して書き綴るということは、普通はなかなかできないことのように思うのですね。たくさんの被爆者の方たちが、被爆を記録した文を書いてくださっていますけれども、後から思い出して書いてくださっているのがほとんどかもしれません。原民喜のように、被爆してすぐに、二日後から記録したというのはあまりなかったのではないかと思うのですが。それはどうしてだったのだろう。文学者としての意地を見せたということもあるだろうと思います。後世の人に伝えなければならない、そういう使命感に突き動かされてもいたと思います。でも、私はふと、別の想像もしてしまうのですね。
 原民喜は、奥さんのことを深く愛していた。貞恵さんという名前の奥さんでした。病気の奥さんを看取って、亡くなっていくときのことを書いた、一連の美しい小説もあります。奥さんがどういう人だったかというと、優しくて賢い奥さんだった。弟さんは、文芸評論家の佐々木基一という方です。佐々木基一さんももう亡くなっていますが、著名な文芸評論家でした。賢い奥さんで、民喜の文学の才能を信じて、一番の理解者だった。励まして、書き続けさせていた、そういう奥さんだった。民喜という人は、世間の人と交際するのが苦手な人だったそうです。あまりにも繊細で、極端に寡黙な人だったと言われています。最愛の奥さんが、民喜と世間をつなぐ通路のような、そういう存在だったとも言われています。
 どうしてあんな悲惨な状況のなかで、民喜は手帳に記録し続けることができたのか。私はこんな空想をついしてしまうのですね。原民喜の心の中で「お書きなさい」という奥さんの声が響いていたのではないか。幻想のようなことかもしれませんけれども、そんな思いを持ちます。奥さんの声に励まされて、「原爆被災時のノート」を書き続けたのではないか。そんなふうに思います。
この「原爆被災時のノート」をもとに書き上げた「夏の花」は、原爆のことを描いた小説ですけれども、書き出しは奥さんの墓参りから始まるのですね。そしてその後、原爆の惨劇が描かれていくのですが、最後まで、遠い響きのように、奥さんの存在が感じられる、そういう小説です。この「原爆被災時のノート」は、目の前のことを記録している文なので奥さんのことは出てこないけれども、書いていた民喜の耳元では、奥さんの幻の声が響いていたように、私には思えます。
 そんなふうに、人というのは、生きている人から励ましの言葉をもらったり、力をもらったりして、私たちみんな生きていますが、それだけではなくて、亡くなった人からも励ましや力を受けるということが、人にはあるのですね。民喜はそういう力を得ていたのではないかと、私はそう思います。
 その後、原民喜は1951年に東京の中央線で鉄道自殺をします。自殺したのは、朝鮮戦争で再び核兵器が使われるかもしれないことに絶望したためだとも言われていますが、それだけではなくて、原爆の後の生活は大変に困窮していましたし、爆心地近くで放射能を浴びていますから、はっきり原爆症という症状が出ていなくても、かなり体調も悪かったのかもしれません。自殺してしまったのですけれども、自殺するまでの戦後の6年間を、この人は必死に耐えて、原爆にかかわる小説や詩を書き続けた。本当に貴重な仕事を私たちのために残してくれた文学者だったと思います。
こういう原爆文学といわれるジャンルで貴重な仕事をした文学者は、ほかにも何人もいますけれども、駆け足でもう一人紹介させてください。

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