しばらく、とは 鴇田智哉2010.4.11

 

水番の片手しばらく樹をたたく

(『新緑』)

 自分が今ここにいる、ということほど、恐ろしいことはないという。
 自分だけではない。
 人がそこにいるということは、それだけでとても恐ろしいことだ。それは、自分が自分自身に対して感じている恐ろしさを、人に重ねて見るからだ。
 そんな重ねのまなざしをもって、作者は、この水番を見たのではないだろうか。 水番本人が、そんなことを何も感じていなかったとしても、である。
 水番は、田の水が盗まれないよう見張っている人。
 水番は、きっと手持ち無沙汰で、樹の幹を叩いたのだ。それだけのこと。
 樹を叩いたとき、叩いた感触が片手にあり、その樹も鈍く響いた。それは、特に取り立てて言うこともない、あたりまえのことが起こっただけだ。でも、その取るに足らないことも、ここにこの水番の男がいなければ、起こらなかったことなのだ。水番は確かにここに「いる」。作者はそういうまなざしで、この水番を描いている。
 そして、水番がそこに「いる」ということの裏側には、水番は確かにそこに「いた」、ということが既に含まれている。片手が樹を叩いているという確かさと、それが過ぎてしまったあとの確かさ。二つはちょっと違うのだけれど、この二つをつないでいるのが、「しばらく」という言葉である。
 水番の片手は、「しばらく」樹を叩いている。その「しばらく」は、何気ないひとときだけれど、確かにそこにあるのである。そしてそれは、水番がそこからいなくなってしまったあとでも、確かにあったことになるのだ。記憶としての「しばらく」。水番がそこに生きていたこと、そこに作者が居合わせたこともまた、「しばらく」のことなのだ。


[著者略歴]

 

鴇田智哉  Tomoya TOKITA

 

1969年、木更津に生まれる。
1996年、「魚座」入会。
2001年、俳句研究賞受賞。
2005年、俳人協会新人賞受賞。
2006年、「魚座」終刊、「雲」入会。
「雲」編集長。句集に『こゑふたつ』がある。

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