夢のかなた 明隅礼子2010.10.10

 

夢の淵歩いてゐたる二月かな

(『草影』以降)

 夢の淵。うすぼんやりしていて、静かなところ。背筋を伸ばし、ひとりきりで、宙を 歩くようにゆっくりとゆっくりと歩いてゆく。時空を越えて、さまざまなものが視界を よぎり、身体の真中を通りぬけてゆく。
 二月は、ほかのどの月よりも短い。同時期発表の句に「きさらぎの夢のつづきのきれぎれに」があるが、短いがゆえに夢までもがぷつんと途切れてしまうような心細さがある。 掲句が九十歳を目前に詠まれた句であることを考えると、夢の淵とは、死後の世界なのであろうか。眼前に広がる天上世界。しかし、夢が途切れる時、その淵は水に溶け、風に吹かれて、いつしか形をなくしてしまう。「私は霊魂の存在を信じているし、もうひとつ別の世界のあることも信じている。その世界へときどき出入りしていると言っても誰も信じていただけないだろう。」(『草よ風よ』)と記している信子であるから、夢の淵に自らの意思で辿りつくことも、そう難しくはないのかもしれない。「私は一年中で晩春から新緑にかけての候がいちばん好きだ。」(『信子十二ヶ月』)と述べているが、静かに夢の淵を歩き、大好きな季節が巡ってくることを心待ちにしているのである。
 信子は芯が強く、己に厳しく、孤高の人であり、いつも全力で生きていたように思う。自身の作句について、「句のよしあしは心の中で一瞬のうちにきまるのでつまらぬと思った句は書きとめない。」(『草よ風よ』)と記しているが、句の詠み方も、人生も、共通した潔さを感じる。無駄なものをすべて削ぎ落とし、残されたのは本に大切なものだけ。「一心に生きてさくらのころとなる」(『草影』)の句に、生き方の手本を見せられているような気がするが、そのような信子が夢の淵を歩きながら見ているのは、未来にさしこめる希望の光なのかもしれない。


[著者略歴]

 

明隅礼子  Reiko AKEZUMI

 

昭和47年 滋賀県生まれ
平成4年   東大学生俳句会参加
平成5年   「天為」入会
平成8年   「天為」同人
平成17年  「天為」新人賞受賞
平成19年  句集『星槎』により第三十回俳人協会新人賞受賞
俳人協会会員

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