永遠に似たもの 山口優夢2010.8.29
月光に遠く置かれし檸檬かな
(『草影』)
真夜中過ぎに目が覚める。何かがあったわけではない。目覚める一瞬前の部屋も、目覚めた後の部屋も、おそらくは何も変わっていないだろうと思える、ほの暗い静寂。何の変化もない静寂は、永遠や死を思わせる。月光が窓から斜めに差し入ってくる。その光に、部屋中のこまごまとしたものが闇の中へ浮かび上がってくる。一冊だけ妙にはっきりと目に入ってくる本の背のタイトルだとか、寝る前に飲んだ薬のコップの水だとか。
ふいに彼女は、月光の中に浮かび上がったわけでもないにも関わらず、そこに檸檬があったことを意識する。檸檬の香りが漂ってきたわけではない。むしろ、檸檬の存在を唐突に意識したために、後からそのみずみずしい香りが立ち上ってきたように感じたのである。テーブルの上の、月光の届かぬ場所に一個だけぽつんと置かれた檸檬。彼女は、なぜかその檸檬のことが強烈に気になる。けれども、彼女はこの静寂を打ち破ることはできない。
彼女が檸檬を置いたときには、それが月光から遠い場所に位置するなどということは企図されていなかったろう。はからずも、檸檬はそのような場所に置かれた。だからこそこの偶然は、彼女の意志とは無関係に、その場を統べる秩序となり、彼女とこの空間を縛り上げる。この種の偶然性には、永遠に似たものがひらめいている。
彼女の代表句は、二つのものが交錯したところにある。「窓の雪女体にて湯をあふれしむ」「ごはんつぶよく噛んでゐて桜咲く」「雪たのしわれにたてがみあればなほ」。「雪」と「女体」、「ごはんつぶ」と「桜」、「雪」と(幻想された)「たてがみ」。それぞれ、交錯しあう二つのもののひとつは、自分自身であることが多い。「女体」は正にそのものずばりだし、「ごはんつぶ」を噛んでいるのは自分だし、「たてがみ」を持っているのは幻想された自分だ。
掲句も、「月光」と「檸檬」という二つのものが出てくるが、これらは両方自分とは関係のないものであり、なおかつ「遠く置かれし」という措辞からも分かる通り、両者は交錯しあっていない。月光と檸檬が交差しないことで、夜の深さ、空間の深さがしみじみと思われる。その空間は、誰の侵入も許さない。この檸檬は、誰にも味わわれることはなく、手に触れられることもなく、その香りを嗅がれることもない。一言で言えば、この句は人間というものの存在を許さない。しかし、人間の存在を許さない空間を感得し、一句にしている彼女は、いったいなんなのだろうか。
それは、死というものに触れているのではないか。
この絶対的な静謐さにおいて、彼女は、梶井基次郎の『檸檬』の檸檬とも、高村光太郎の『レモン哀歌』の檸檬とも違う、しかし、それらの切迫感を無言のうちに負ってしまわざるを得ない、彼女だけの檸檬を手にしたのだ。
桂信子、このとき81歳。晩年まで「雪たのし」といった躍動感のある句を作ったが、その中にひっそりと紛れたこの檸檬の句は、僕にとっては、なにか忘れ難いものがある。
[著者略歴]
山口優夢 Yumu YAMAGUCHI
1985 年、東京生まれ。東京大学大学院博士課程1年。東大・早稲田など東京の学生俳句サークルやTHCなどの超結社句会に参加。第六回俳句甲子園団体優勝・個人 最優秀賞。第二回龍谷大学青春俳句大賞大学生部門最優秀賞。第四回鬼貫青春俳句大賞優秀賞。好きな惑星は火星。2008年12月より銀化所属。アンソロジー『新撰21』(2009)に参加。ブログ「そらはなないろ」