不穏な作家 永末恵子2010.6.13

 

外套の中の生ま身が水をのむ

(『女身』)

 桂信子の俳句にはどれも「 にお い」がある。臭いとは言いすぎかもしれない。しかし「生ま身」がある、と言ったところであまり上品に言い替えたことにはなるまい。この人の俳句固有の或る種「 なま もの感」は独特である。いかに優美なモティーフを扱おうとこの人の手にかかるとなぜか「生もの」になってしまう。時間という不可逆性のただ中にある、命をもつすべてのものが辿る頽落から壊滅そして消尽への避けがたい宿命を、そのものの盛りにおいてすらある種の匂い(臭い)として漂わせている。そしてその匂いにはたしかな重量と体積と手触りがあるのだ。それがたしかな生ま身であり、しかも生ま身をもって時間の非情さに抵抗するのでなく、むしろ受け入れ肯っているのだ。ここに桂信子のしたたかさがあり、腹の据わりがある。不穏な作家なのである。
 掲句を初めて読んだ時の印象は、まさに文字どおり生ま身がそこにあることの不穏さだ。この句を俳句を知らない人間に読ませたところ、「気持ちの悪い句」と言った。「こわい」とも言った。なぜなのかの説明はできないようだった。だが、彼女の感受性はきわめてまっとうな気が私はした。この句にはなにかグロテスクなものがある。むうっと立ちのぼってくる体臭がある。「生ま身」という言葉がのっぺらぼーの貌でこちらに迫ってくる。嚥下された水が、あたかもレントゲン写真に撮られつつあるように、移動してゆく状態までありありと見えてくる。外部のものであった水が、のまれることによって「生ま身」と一体化する。外が内になる。あるいは内が外になる。生ま身=水となるのだが、こうなると生ま身であるところの人体の輪郭は、まるで軟体動物のような得体の知れぬ生きものに思えてくる。そこにあるのはいわゆる「生きもの」としか言いようがない何かだ。一枚の外套の中の暗がりで起こった、これは生々しく不穏な事件である。


[著者略歴]

 

永末恵子 Keiko NAGAMATSU

 

1954年 広島県生まれ
1989年 同人誌「白燕」入会
1993年 「白燕」退会
現在無所属
著書に 歌集『くるる』 句集『発色』『留守』『借景』
2003年に『ゆらのとを

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