信じるということ 田島健一2010.9.12

 

大寒や風より先に人狂ふ

(句集『草影』以後)

 『桂信子全句集』を読みながら、ひとつ感じたことがある。
 それは、彼女を励ましているものと、苦しめているものが、作品の底にしずかに流れていて、全句集を通じて大きなモチベーションを形成している、ということだ。厄介なのは、それらが「同じもの」だ、ということだろう。それは、彼女に苦しみをもたらし、同時に生きる希望を与えている。
 苦しみから逃れるために、それを消してしまえば、同時に、自分自身を支えているものも一緒に消えうせてしまうもの。それがあるために、主体をポジティブな方向とネガティブな方向に、同時に引き裂いている「何か」。
 その「何か」を名指すことができないために、あるいは、その「何か」の存在を確かめるために、彼女は俳句を作り続けたのかも知れない、と考えるのは考え過ぎだろうか。
 もし、その「何か」を起点として、幸や不幸などのあらゆる状況が生まれているのだとすれば、私たちがそこで感じるすべてのことは、まぼろしであると言ってよいだろう。つまり、そのようなまぼろしを信じることでしか、ものを感じることができないのだとすれば、私たちは常に「狂い」の中にいる。
 掲句は、桂信子の最後の句集『草影』発表以降に結社誌「草苑」に発表された、句集未収録作品のひとつである。視覚的なイメージをもたらす言葉はひとつも使われていないが、ここには現象とそれを感じ取る精神との前後関係が鮮やかに描き出されていて、力強い。
 第一句集『月光抄』から読みすすめたとき、明らかに作者の立ち位置が変化していることを知らせてくれる一句である。
 それは、ある種の「狂い」を受け入れ、世界を「信じる」立ち位置である。そのような「信じる」立ち位置こそ、ことばにかけがえのない秩序と崇高な響きを与える唯一のものなのではないだろうか。


[著者略歴]

 

田島 健一 Kenichi TAJIMA

 

1973年、東京生まれ。俳句結社『炎環』同人。超結社「豆の木」参加。現代俳句協会青年部委員。共同著書「無敵の俳句生活」(ナナ・コーポレート・コミュニケーション)。
ブログ「たじま屋のぶろぐ」(http://moon.ap.teacup.com/tajima/

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