エッセイ集『空を流れる川――ヒロシマ幻視行』刊行記念 (1)西陣からヒロシマへ2010.11.4

 

講演●ヒロシマの声に耳をすます
野木京子+映画上映「チェチェンへ」「生きていてよかった」「アナタハン」

2010年11月4日
同志社大学寒梅館ハーディーホールにて
主催・同志社大学今出川校地学生支援課
共催・studio malaparte

(1)西陣からヒロシマへ

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 皆さん、こんにちは。野木京子と申します。今日はお忙しいところを皆様、お越しくださってありがとうございます。私も、午前中から映画の上映を観ていました。ずっとご覧になっていた方もいらっしゃると思いますけれども、上映された映画は3本とも、戦争そのものは描かれていないけれど、戦争がどれほどひどく人の体と心を傷つけるか、それがよく伝わってくる映画だったと思います。3本ともすぐれた映画ですが、なかでも亀井文夫の『生きていてよかった』、これは古いドキュメンタリー映画ですが、何回観ても感動します。私も今日観ていて、胸がいっぱいになって涙がこぼれました。まだご覧になっていない方は、私の講演の後にもう一度上映がありますので、ぜひご覧になってみてください。これほどいい映画なのに、なかなか普段は観る機会がない、そういう映画です。
 今日は、映画と映画の上映の間で、なにか狭間のような時間に私の講演があるプログラムになっています。上手く話せるかどうかとてもドキドキしているのですが、なんとか最後まで頑張って、私のほうは、映像はありませんけれども、言葉で最後まで駆け抜けたいと思っています。

 

 いろいろお話したいことがあるのですが、京都のこの場所で皆さんにお会いできたことを、私はとてもうれしく思っています。うれしく思うと同時に、自分が今ここにいることがとても、不思議な感じがしています。というのは、私は今日この京都で、広島について話をします。昨年中国新聞で、ヒロシマをテーマにしたエッセイを、一年間ほとんど毎週連載しました。中国新聞の方(佐田尾信作さん)が、ヒロシマをテーマにして連載しましょう、「ヒロシマ幻視行」という連載タイトルをもう決めたから、とおっしゃった。それで、ヒロシマの幻を視るようにしながら、手探りで紀行文を書くという、私にとって大変に難しい連載を始めました。
 お話をいただいたときから、私は困っていたのです。なにを困っていたかというと、私はそもそも広島の人間ではないし、被爆者でもない。被爆の二世、三世でもないわけです。そして被爆者の気持ちというのは、経験していない人間にはわからないだろうと思います。私と広島の縁というのは、11年前に2年間という短い間住んでいた、それだけです。その2年の間に、考えたり、感じたりしながら、大きく言えば、原爆が世界で初めて投下された都市である、広島という場所から影響を受けながら、詩を書き続けてきた。それだけなのですね。でも頑張ってというか、苦労しながら最後まで連載を書き終えました。
 そもそも中国新聞の方がどうして、広島の人間でもない、ただ2年住んでいたというだけの私にそういう原稿を依頼してくれたのか、それにはきっかけがありました。そのきっかけに、京都のこのあたりの土地、地名が実はかかわってきます。
 小さくて見えないかもしれませんけれども、これは「雲雀」という雑誌です。表紙に、男の人が立っている写真が載っています。これは原民喜という人です。原民喜については、よく知っている方もいらっしゃると思うのですけれども、まったく知らない方もいらっしゃると思います。
 原民喜がどういう人かというと、あの8月6日に、爆心地から1キロのところで被爆し、その恐ろしいありさまを目撃して、それを必死に書き続けた詩人で小説家です。この「雲雀」は、広島の人たちが、苦労を重ねながら発行を続けている冊子です。原民喜が私たちのために書き残した貴重な作品を、広く世間に知らせるために、研究を続けるために、出されている雑誌です。これが今年出た最新号です。こちらが2年前に出た号なのですが、この2年前の号に、私はある文章を書く機会がありました。
 その文章というのは、公開の往復書簡でした。広島から京都に引越ししたばかりの映像作家の宮岡秀行さんが、私に、原民喜にかかわる手紙を書いて送ってくれた。それに対して私のほうからも、公開の返事の手紙を書いた、そういう形式の文章です。そのときの往復書簡のタイトルが「『西陣』からHiroshimaへ」というタイトルでした。この近くの、京都の西陣のことです。宮岡さんが西陣の近くに引越しをして、そこの郵便局から手紙を送ってくれた。そして私は返信の手紙文を書いたのですが、その返信の手紙文を、中国新聞の佐田尾信作さんが読んでくださって、気持ちを動かしてくれた。そしてエッセイを連載するということへとつながっていきました。そして連載したエッセイを中心に、単行本に先月まとめることができました。それで今日はその本の刊行記念講演ということでここに来ていますので、元々のきっかけが西陣で、グルッと回ってまたここに来ているという感じなのです。ですから自分がここにいることに不思議な思いがしています。元々の出発点のような場所に戻ってきていると言ってもいいかもしれません。
 その「『西陣』からHiroshimaへ」という返信の手紙ですけれども、私のほうも原民喜やヒロシマについて長い手紙を書いたのですが、書き出しのところは、少し個人的なことを書きました。こういうふうに書き出しました。

 思いがけず郵便物をいただいて手にしたとき、最初の驚きは消印に「西陣」と印字されていたことでした。お読みくださった拙詩集『ヒムル、割れた野原』にも書きましたが、私の高校生のときからの大切な友達、病気で亡くなった彼女が通い、そして葬儀が執り行われた教会が、西陣にあるのです。公開書簡を書くことは、私にとって初めての経験です。大きな広場にひとりでぽつねんと立っているような心細さで、どう言葉を繰り出したらよいのか迷います。普通の書簡と違い、受取人の宮岡さんのほかに、広場のあちこちに見えない大勢の人たちが存在し、宮岡さんの心身を通り越して、それらの人々にも向けて言葉を出さねばならない。そもそも私のようなものが、原民喜を偲ぶ冊子に書いていいものだろうかと、自分に資格を問うてみたりして、ますます混乱するのですが、私の友達が「だいじょうぶだよ、西陣から届いた手紙なのだから」とこっそりそう言うので、書き始めることにしました。こんなふうに、私はいつもどこか死者にも支えられて生きているのです。

(「雲雀」第八号「『西陣』からHiroshimaへ」)

 個人的なことというのは、私のとても好きだった友達、誰にでも優しい人でしたけれども、その友達がこの同志社大学のすぐ近くに住んでいました。私が広島に住んでいた11年前に、彼女は難しい病気にかかりました。私が広島に住んでいた2年間というのは、彼女の病気のことを心配していた時期とも重なっているのですね。だから、今皆さんと一緒にいるこのあたりの土地が、私の心の中の広島に、ふっと別の光を投げ込んでくるような、そんな不思議な感じがします。
個人的なことですけれども、ここまでを助走にして、次に話を進めたいと思います。

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