『八月四日に生まれて』出版を祝う会2019.5.14
山本敦子さんの句集上梓をお祝いする会がすぎる5月11日に千代田区のホテルニューオータニで開かれた。
俳人では、帯を書かれた高橋睦郞、序文の高山れおな、栞の筑紫磐井、関悦史の各氏がお祝いにかけつけた。
ふらんす堂からは担当のPさんが出席。
「俳人の方たちだけではなく、山本敦子さんの広い交友関係を思わせるたくさんの方々が集まってとても華やかな会でした」とPさん。
乾杯のご挨拶をされたのはご夫君であり、俳誌「野の会」主宰の鈴木明氏。
ご挨拶をされる山本敦子さん。
皆さま、本日はご多忙の中、私の出版記念会にお越し頂きましてありがとうございます。天気もぐずついていたんですが、今日は新緑らしい良い天気にめぐまれて本当によかったとホッとしております。今日は仙台から、大阪、京都、岐阜、遠方からもお越し頂きまして、有難いことと感謝しております。私が俳句の本を作るなどとは、自分でもつくると思っていなかったのでびっくりしております。以前から明さんには、そろそろ句集を出したらどうかということを言われてはいたんですけれど、自分の俳句に自信が持てなくて、躊躇していたんです。明さんが「あっちゃんが思うよりはマシだよ」と言われていたんですが、勇気が無くて。ところが去年の1月に三叉神経痛で、すごい激痛が長く続きました。お薬がどんどん増えて、ぼーっとしまして、麻薬中毒者みたいになってしまって、お医者様に相談して、ブロックすることにしました。そのとき先生が仰った言葉に「この病気というのは治るということではなくて、気をそらさないとダメだ、なるべく病気から離れること。気を紛らわすことをしなさい。」と仰って、「普段は何をなさっていますか」と聞かれたので「呉服のデザインと俳句をしている」と応えましたら「いいじゃないですか、そういうことにもっと力を注いで痛さから離れるようにしなさい」と言われまして、家に帰って明さんに話したところ「そうだろう、だから句集をつくりなさい」と言うことになったんですね。私は子供がいないもんですから、死んでしまったら何にも残らないんです。だから生きてきた証が欲しいというものがありました。着物のデザインはしていますが、染めたり刺繍したりという現場の仕事はしていませんから、音楽でいえばコンダクターみたいなものですので、私の着物が残るというと少し疑問が残るんですね。「そうだ、俳句や」と思いました。俳句だったら自分でつくって、自分で出来る。これだったら私の生きてきた証ができると思いまして、句集を思い切って作ることになりました。まず帯に、高橋睦郎先生、序文に、高山れおな先生、栞に筑紫磐井先生、関悦史先生。本当に俳句の世界でこんな高名な先生が揃われることが滅多にないような方々で、先生たちのお陰で素敵な句集になりました。そしてそこに、明さんの跋があり、野の会を代表して石田杜人さんの栞があり、皆さんの暖かい気持ちにつつまれてこの句集ができたと思っています。先生方本当にありがとうございました。本にも書いていますけど、私は人が大好きなんです。生まれてこの方あまり人を疑ったことがないんです。また、そういうふうに生きてきてると、人に優しくしてもらえるし、私は皆さんに引き立ててもらってここまで来ました。そして今日、このような会が皆さんの暖かい心によって生まれました。だから本当に嬉しいです。最後にひとつ。この句集ができた一番の理由は、主人の明さん。高橋睦郎先生はもっと昔から私のことを知ってくださっていますけど、私は明さんに会うまで、商売のことと社交はまあまあ出来ていたんですけど、こういう世界、文芸的なことってなんも知らなかったし、常識も知らなかったのです。明さんに出会って、「こういう本を読め」とか「ああしなさい」とか「あなたは人を傷つけるよ」とか、(会場笑)、私わからんとばーっと言ったことが人を傷つけているらしいんですね(笑)。明さんに言われて驚いたりなんかして今日まで来てるもんで、それが今直っているかは分かりませんが、昔よりは少々増しになっていると思います。本当に、明さんのおかげです。明さんありがとう。また、あっちゃんの「明さんがはじまった」と言われるところで挨拶をおしまいにします。(笑)ありがとうございました。