「陸」創刊50周年お祝いの会2024.11.28
加藤楸邨が「寒雷」の創刊号をだしたとき、田川飛旅子は巻頭でした〈胸の瀑布替へゐるひまも聴く野分〉という句です。その時の次席が永田耕衣でした。その時の名前は、永田耕衣という名前ではなかったですが。田川飛旅子は、最初は短歌をやっていたのですが、楸邨に出会って楸邨門にはいった第一期生といってもいいと思います。楸邨を尊敬すること人後に落ちずということで、楸邨が亡くなったあとも「陸」の主宰をしながらも「寒雷」の同人会長まで引き受けていました。わたしの思い出に残っていることは、「陸」が創刊されたとき、田川飛旅子と一緒に「創刊号」をもって楸邨宅をたずねたときのことです。「創刊号」をみた楸邨は喜んで「ああ、ついにやりましたね。飛旅子さんの実力だったらもっと早く主宰誌が出せたのに。」ということを言われたのです。それは何故かというと、後輩であった金子兜太、森澄雄がすでに主宰誌をもっていた。第1期生である田川飛旅子がちょっと遅れていたということもあったと思います。本人はあまり主宰誌をもつつもりもなかった。当時は戦後の高度経済成長期で仕事もものすごく忙しい。古河電気という会社の重役として世界を飛び回っていたんです。ドイツにいったりアメリカに行ったり、とても俳句の主宰誌を出すヒマがない。まわりから推されてしぶしぶ出したのではないかと思います。その一二ヶ月あとに「寒雷」の大井町の句会があったのですが、当時結社誌が少なかったこともあり、また楸邨の人気もあり、だいたい句会は80人から100人が当たり前でというような、わたしもその句会に出ておりました。すると楸邨が田川飛旅子の「陸」創刊号をその席にもってきて、「田川さんが、こういう雑誌を出したから応援して欲しい」と皆の前で言われたのですが、あとあとになって考えてみると、ふつう主宰はそんなことを言うかと思い、つくづくと楸邨の人間性を思いました。
50周年を記念して刊行された中村和弘第四句集『荊棘(おどろ)』
(ふらんす堂「編集日記」2024/11/29より抜粋/Yamaoka Kimiko)