第40回詩歌文学館賞の贈賞式2025.5.24
5月24日(土)に岩手県北上市の日本現代詩歌文学館にておこなわれた第40回詩歌文学館賞の贈賞式について、すこしレポートします。
玄関口は全く見えない時代に来ています。相変わらず僕たちの展望 は閉ざされています。僕達はそこでわずかしか生きない。けれども僕たちは耐え続けなければならないということです。誰からも見られないことをうちに 誰もがそうであるように、痛みきって這いつくばって、稼ぎ働き、書き、開いては閉じ、閉じては開いて、それぞれの世界は意味の中に満ちていかなければなりません。
北関東の茨城県の海沿いの田舎町の自然と平凡な暮らしぶり、またわずかに知れた国内外の事情についての感想などデータを少し添えた本でございまして、今後老いが短歌にどのようにからみついてくるか それが非常に楽しみでもあり恐怖でもあります。
俳句は映像に近いんじゃないか、俳人は短い形で映像を作っているんじゃないかとも思いました。松本俊夫さんというドキュメンタリー作家の映画論「アバンギャルドとドキュメンタリー」評論評論で、これは俳人の皆さんには是非読んでもらいたい。俳句はドキュメンタリーであるという部分を忘れてしまったら俳句は衰退してしまう。足でそこに行って眼で見るという姿勢、これは芭蕉たちがやっていることで、参考にすべきだろうと思いました。70代になって自分の句集を客観的に読み返しても、まだまだと思います。そのようなことを考えながらも、この賞に背中を押して頂きながら、次のステップに進んでいきたいと思います。
この詩歌文学賞が50回を迎えるときには、川柳の賞もあってほしいと思います。
ある雑誌で「大器免成」ということについて書いてありました。「大器晩成」は四字熟語であると思うんですが、「大器免成」は、つまり大きな器は完成することがないということですね。私はその方が老荘思想的にもしっくり来ると思いました。私は俳句、短歌、自由詩も川柳も小説もそれぞれが大きな器だと思ってます。それらは完成することがない、その楽しさは死ぬまでそれに準じたいと思います。
海外(台湾)に済んでいると皆俳句を知っているけれど、短歌はあまり知られていない。「俳句みたいなもの」と説明するけれど、これを逆転させたいなと思いました。
自分に向き不向き、好き好きがあったりしてこうして色んなやり方で表現しているんだなぁと熱い気持ちになりました。自分としては無邪気に仕事をして世界に相対していきたいなと思いました。
それぞれ自由にそれぞれの話したいことをお話しいただく中でも何か共通するものを見出していただけたら幸いです。 本当に 不透明な時代だからこそ面白い、わからないから面白いっていうのは、今日の一つのテーマだったんじゃないかなと思います。詩歌の未来については この後是非色々教えていただいて語っていただけたらと思っております。
(ふらんす堂「編集日記」2025/5/28より抜粋/Yamaoka Kimiko)