対中いずみ句集『水瓶』お祝いの会2019.7.8
『水瓶』を一番特徴づけている静かさはどこから来るか。静かさは、現象ではなく主観的な感覚である。それではどこに静かさを感じるか。それはじっと見入って書かれた句が多いということ、それは観察するというよぼおっとり見入って没入するということ、そいういう句が多いのではないか。「わからなくなり水仙のやうに立つ」「わからなくなり」という言葉にぼおっと見入るということが集約されているのではないか、このように意識の外に出ていったときに生まれた句が多いような気がする。「水を見てゐて沢蟹を見失ふ」など意識の外にあるということが「静かさ」の要因ではないか。
句集の全体の感触にふれて、闊達な句集であると思った。波多野爽波、田中裕明につづく闊達さにつづくものであり、それは一環して貫く美意識や境涯というところで句集をまとめるのではなく、驚きを驚きと詠む、たとえば「はなびらのすりぬけてきし桜かな」のように、あるいは「人を待つバスの震動ぼたん雪」のように驚きを驚きとして詠む句集である。師系とはこういう形で受け継がれていくのだと思った。田中裕明と対中いずみの句を比較すると「水瓶」に詠まれている「龍」を見る側に対中さんがいるとすれば、田中裕明という俳人は、龍そのものになるような瞬間を詠めた俳人だったような気がする。「大き鳥さみだれうををくはえ飛ぶ」のような人の世界とちがうものを言霊に溶かしこんで詠めるような俳人が田中裕明だった。対中さんは「龍」を見る側にいるが、向こうからやってくるものや訪れるものに対する感度というものは、裕明的なものを受け継いでいる。
『水瓶』には波のような柔らかさと静かな呼吸を感じた。ただ、静かなだけではなく、豊かな自然と動物たちとの命の交感がいきいきとした躍動感がある。『水瓶』には動物たちの句が85句ありかなり多い。全体の3割を超えている。そのなかでも鳥の句が一番多かった。とくに「何かよきものを銜(くは)へて雀の子」が好き。人の子に対するような優しさがある。雀の子を描きながらも作者の人間性がでている。「近々と二百十日の鳶の腹」これは琵琶湖のそばに住んでいる対中さんらしい句である。かつて行ったことのある琵琶湖の風景で、非常に共感をもって読んだ一句である。句集にたびたび出てくる龍の句7句については、琵琶湖には龍がまつられていたりして、琵琶湖に龍がいても不思議ではないが、生き物として龍が対中さんの目には映っているのではないか、他の人には見えない龍が見えているのではないか、あるいは対中さんは龍を飼い慣らしているのではないか、「わたくしの龍が呼ぶなり春の暮」もう飼っているとしか思えない。対中さんのなかの龍と、琵琶湖の龍が呼び交わしているのではないか。
「波多野爽波先生の目指した季語の本意と写生を軸に日本の伝統詩としての俳句をつくっていきたいとを考えています。そこで大切にしたいのは詩情ということ」「ゆう」の創刊号での「田中裕明のことばである。さらに創刊号の選評「ゆうのことば」には「新しい俳誌を始めるにあたって大上段に理念をかかげるつもりはありませんが、俳句に対してまじめに向かい会いたいと思います。」とある。「新しい俳句をつくることによって、新しい自分に出会いたい」ということを田中裕明は最初に語っている。俳句をつくるにあたって一歩でも二歩でも新しいものを加えていきたいということが裕明に志だったと思う。それだけはお腹のなかに入っている。今回『水瓶』を編集するにあたり、あるバイヤスをかけたのだが、それが「水」とか「龍」がテーマのような句集になったのではないか。「龍」の句については、賛否両論があり、対中さんらしいと手を打って喜んだ方から、「龍の句」があったために『水瓶』の世界には入りにくい、作者の独りよがりではないか、わからなかったという声もあった。あるいは「龍」はあるものの象徴だろうという鑑賞もあった。そういう批評の声はあるだろうというリスクを恐れずにあえて作った句集であるので、その句集がこうして賞をいただけたことは驚きでもあり、有難いことであったと思う。