第71回小学館児童出版文化賞贈呈式2022.11.18
すぐる11月10日に、ふらんす堂句会の講師である高柳克弘さんの「第71回小学館児童出版文化賞」の授賞式が如水会館にてあり、お招きをいただいたのでスタッフのPさんが出席した。
受賞された高柳克弘さん。
私は普段俳人として活動していますが、元々はドストエフスキーが大好きだったので、大学は文学部に進みました。ドストエフスキーのような壮大なものは無理かも知れないけれど、何か創作がしたいなと思って俳句サークルを覗いたところ、すごく人数が少なくてそれも僕の肌に合っていたのもあってたんですね。初めて作った俳句を担当の先生が「君は寺山修司の再来だよ!」と言って褒めるもんですからその気になったりしてたんですが、後で先輩にきいたら「あの先生はみんなに同じ事を言ってるんだ」ということでガッカリしたりもしました。でもこの頃にはもう俳句にハマっていたんですが、なぜそんなに取り憑かれていたのかと今思うと、2点あります。1つは俳句というものは言葉を緻密につかうんですね。夏目漱石が「俳句はレトリックを煮つめたようなものだ」と言っていますけれど、確かに助詞の位置にいたるまで緻密に考えている。
初めて芭蕉の句を読んですごいなと思ったのは、奥のほそ道の冒頭で見送りに来た弟子達にお別れの句を読んだものなのですが「行春や鳥啼魚の目は泪」という句です。別れを惜しんで鳥は鳴いて、水中の魚の眼にも涙が浮かんでいるという句なんですが、私は最初「目に泪」と覚えていたんです。後で気がついたんですが「目は泪」なんですね。これに衝撃をうけました。「に」でも「は」でも同じようなもののような気がしますが、助詞の一字でかなしみの量が大きく変わるというんでしょうか。「目に泪」だと目の端にちょっとだけ涙が浮かんでいるようなイメージですが、芭蕉は「目は泪」としました。目=泪、というのは目全体が泪になってしまうくらい悲しみが溢れているという表現になります。これはすごいなと。意味やメッセージを伝えることでは変わりが無いのに、一字一句や呼吸に拘るのだろうと思いました。それが非常に新鮮でその考えが分かりたいとおもうようになって俳句にハマっていきました。もうひとつは俳句というものは17音で短いのですが、人間を越えた他の世界につながるように思います。自然や宇宙、神のような大きな存在に繋がる気持ちになります。例えば季語を読みますが、なぜ季語を読むのだろういつも考えているのですが、街の中に生きていると全てが人間中心になって作られています。階段とかも人間の幅につくられていますが、一旦山や海に行ってみると人間ナイズされたものってないんですね。山を登ろうと思うと、岩や土といった自然に併せて自分の歩幅を考えていく。自然が主人公で人間はその中の一部であると考えるようになりました。今まで自分という人間が中心だった考えが覆されていくのがすごく新鮮だったんです。?私が書いた物語に出て来る登場人物はなにかしら誰かにかけられた言葉によって傷ついているところがあるんですね。そのひとりに「ハセオ」という男の子がいて、私はハセオと似ているとことがあると思います。私の父は全然文学に関心が無く「文学は役に立たない」と言われたことがあります。ハセオも同じ事を物語のなかで言われます。この言葉は僕の中でも大きな問題であり、今の現代という時代においてもすぐに役に立つものが重んじられている世の中で芸術や文学が二の次になってまずはお金を稼ぐ力優先されるような世の中です。こういう時代においても意味を持つ問いかけのように思います。果たして文学は役に立たないのだろうか。この父から与えられた問題は、すごく大事な問題になっています。
今現時点で出せる答えとしては、この資本が中心となる世界の中で17音に打ち込むというちょっと世俗から離れた位置から世の中を見たときに、どちらかというと人間側よりも自然の側に属している俳人という立場から人間社会を見てその時に何か言えることがあるんじゃないと思っています。そのために文学に関わっているんだと思っています。?俳句の魅力に取り憑かれて20年くらいになりましたので、これからは新しい世代に俳句の魅力を伝えていきたいと思います。
扉開けすなわち小春日和かな 克弘