「いには」創刊20周年2024.10.30
20年を振り返って、記念誌を作りまして特に思ったことですけれど、「いには」もどんどん人が、若い人も育っているんじゃないかなということを実感します。俳句の面でも評論の面でも、若手が活躍してくれているんですよね。だからやっぱりこの20年の成果はちゃんとあがってるんじゃないかなってうれしく思います。この間の周年の時に、「誰か作家を出さないとダメなんだ」という話が出たんですけど、「いには」も一人作家を出しました。北海道に住んでおります名取光恵さん、私の北海道時代からの第1号の弟子と言ってもいいかもしれません。昨年『羽のかろさ』という句集を出しました。それが俳人協会北海道支部の協会賞を受賞しまして、同じ年に北海道新聞社賞も受賞しました。今日いらっしゃっている櫂未知子先生のご尽力もあったと思いますが、そういうことで独り立ちさせる、要するに「いには」から作家を一人でも生まれないといけないということだったので、どうにか一人は生まれたかなと思います。他にもどんどん色々な面で皆さん活躍してくださっていらっしゃいますので、とても楽しみにしています。何よりも一番感謝したいのは、この20年ずっと発刊に対してご尽力いただいた同輩の人たちです。編集、校正、発送それから会計。そういう所を本当に支えていただきました。私はその人たちに心から感謝したいと思います。
実を申しますと、私は大野林火には6年間しか師事していないんです。6年間でしたけれども、なぜ生涯の師としたのか?っていうことをちょっとお話しさせていただきます。まず1つは、私は遠方に住んでいて句会にもろくろく出ていなかったんですが、林火に直接、毎月一回は、毎月20句とか30句を送って添削を受けられたんですよね。添削の朱筆はほとんど何も書いてないんですよ。丸とかチェックとか、何も書いてないとか。そんな暗号みたいなって添削だったんですけどね。最後に「頑張ってください 」と一言書いてあるんです。その添削を通して林火から頂いたものが大事だったということです。また、今回刊行しました。大野林火論の一番最後に写真が載っております。その写真は私が大野林火から「浜賞」をいただいている写真です。その半年後に大野林火は亡くなってしまったんです。だから、私は最後に林火から「浜賞」をいただいた一人であるというその自負ですかね。これがやっぱり非常に大きかったと思います。それから3つ目に、林火が野澤節子や村越化石など、病んだ人へ対しても非常に手厚く指導をしているんですよね。特に村越化石はハンセン病で、隔離されてひどい偏見を受けた病に罹っていましたが、少し希望が見えたときに「指導に来て欲しい」という声に、まだその頃は皆非常に怖がっていた病でしたが、林火はハンセン病について勉強して、年に1回は必ず指導へ行って、それを30年間ほとんど死ぬ間際までずっと続けていました。だから村越化石はそのおかげで蛇笏賞作家にまでなれたといっても過言ではないと思います。これはなかなか他の人には真似できないんじゃないですかね。そういう人間愛の深さにすごく感動しました。4つ目は林火の俳句の抒情性に私は惹かれました。林火はいつも「言葉は易しく、思いは深く」と言っていました。ひらがなが好きで、本当に言葉が易しい方ですからね。これを私は今も俳句の原点にしています。北海道時代の私の第一句集『雪降れ降れ』の題にした句があるんですけど、これは美しき生ひたちを子に雪降れ降れという句からなんですね。当時の俳壇ではこんな甘っちょろい句、とかなり批判された人もたくさんいたらしいんですよね。ですが、林火がこの句をとってくれたから、私は今日あるわけです。これをあまっちょろい句として林火がはねていたら、今日の私はありませんし、20周年というこの祝賀もなかったと思います。本当に良い師に恵まれてありがたかったと思います。本日はありがとうございました。
来賓の方々と記念撮影。
充実した記念号
(ふらんす堂「編集日記」2024/10/31より抜粋/Yamaoka Kimiko)