「天頂」創刊25周年300号記念2024.11.28
皆さんお一人お一人が言葉をよせていただき、良い会にすることができ、ありがとうございました。俳句は集いの文芸と申しましたが、俳句をやる私たちを俳友(はいゆう)と言います。その原点は、唐の白楽天の「琴詩酒(きんししゅ)」という言葉から来ています。自分を慰めるものとして「琴」と「詩」と「酒」があり、それぞれ「琴友(きんゆう)」「詩友(しゆう)」「酒友(しゅゆう」の三つの友があるということです。一方「雪月花」という日本の美の象徴にもなっている言葉がありますが、この「雪月花」という言葉は白楽天がつくった言葉なんです。自然の四季のなかでもっとも美しい時期、雪見、月見、花見があり、若い時から白楽天はその時期に友だちと酒を飲み、詩をつくって一緒に楽しんだのです。「雪月花」とはただ自然の美しさだけではなく、そこで雪や花や月を一緒に楽しんだ友だちのことが思いだされる、だからそれを見るたびに、それは雪を見ているのではなくて一緒に雪をみたその友のことも同時に思い出される。そのように雪月花のときさえも、自分の辛い憂いのときには、琴」も「詩」も「酒」もいっさい自分の友だちではないんだ、というそういう詩があります。、日本の菅原道真がやはり三友ということばを白楽天から学びまして、自分にとって琴と詩と酒は、白楽天が愛したように自分にとっても三つの友だと。ところが太宰府に左遷させられたあと、道真にとって、琴は聴くのは好きだけど下手、酒もそれほど飲めず、だから真の友ではなかったけれどまあ、三友だと思っていたのですが、いろいろ太宰府にいて思ったことは、自分にとって残ったのは詩の友だけである、これを「詩友」といいますが、この詩友は自分が死ぬまでの友である。詩友=死友なんです。そういう長詩をつくっています。わたしは、歌は好きですが琴は奏でられません。お酒は好きですが、飲めません。ゆえに琴も酒も友ではありません。詩は友、詩はすなわち俳句、俳句が友です。つまり「俳友」ですね。そしてこの「俳友」というのは本当に有り難い仲間であるとつくづく思うんです。この「俳友」には、自分にとって俳句自体が友であるということと、俳句をする人が自分の友である。という二つの意味があるんです。たかが俳句、されど俳句という言葉があります。「俳句」は趣味の世界です。俳句の世界もむかしの漢詩の世界と同じで、それをやっている人たちのなかでは非常に濃密な時間がもてる、だけどそれは客観的に見れば実にささいなつまらないところでぼそぼそやっている、単なる自己満足じゃないかというそういう見方もできる。そのことにこだってそれに関わっている人にとっては、非常に面白いものであってもそれはその時の一時的ななにか濃縮されたものであるんだけど、それは一般的な評価というもととはまったっく繋がらないものがある。しかし、いつも新鮮に挑んでいけるもの、それが俳句。俳句は決して上達しないものではない、自分の思いを新しく新しくともとめていけば、必ず新しい句が生まれてくる、それを信じて頑張って、いや明るく楽しんで、恥をかいてまいりたいと思うんです。
(ふらんす堂「編集日記」2024/11/23より抜粋/Yamaoka Kimiko)