日本一行詩大賞2018.9.22
一行詩大賞をたちあげて10周年になります。そして今年はわたしの師である角川源義の生誕100年の年です。いま角川源義の100句鑑賞を執筆している最中なんですけど、師の処女句集『ロダンの首』に石田波郷が跋を書いています。そこにこんな風な言葉があります。俳句のかたちこそは何ものにも代えがたい魅力なのである。このかたちの中で自己表白するという魅力はいかなる文芸形式によっても果たされない。それは隠微であって揺曳し、寡黙であって無限に訴える。「寡黙だけど無限に訴える」
そしてこのことを今回の大賞を受賞した岩淵喜代子さんの句集に感じました。この「訴える」ということから、歌がはじまったのだと思います。
青空の名残のやうな桐の花麦秋や祈るともなく膝を折る十二月八日手袋嵌めにけりみちのくの闇は重たし牡丹焚く刃物みな空を映して農具市 (句集『穀象』より)
読んでいて実にことばが重厚です。とりわけ「麦秋や祈るともなく膝を折る」。歴史、人生、あらゆるもの、挫折も、そのようなものをふくめたものが一句のなかに見事にある。驚いてしまう。「十二月八日手袋嵌めにけり」日米開戦をうたった句。「みちのくの闇は重たし牡丹焚く」「刃物みな空を映して農具市」農民の長い歴史があり、日常の風景のなかからこうしたものを見事に詠いあげ、大賞に匹敵する作品であると思いました。
小説をかいている人間ですが、俳句ってなんだろうと門外漢として考えることが多い。どうしてこんなに長い間俳句が世界を豊かにしているのか。角川源義氏は、俳句とは宗教以上のものであると言う。それは言葉によってもたらされる救いである。それは言霊でありすなわち祈りである。祈りは,ぎりぎりまできりつめた形式をもつ言葉、角川源義氏は、俳句は宗教以上のものと俳句のことを言った。宗教は教義や戒律など複雑な形式をもっているが、俳句は五七五と季語によってなりたつ。この短さと日本語の音の力が合わさると祈りになる。祈りというのは、万物との交感だと思います。今年の一行詩大賞のの岩淵喜代子さんの『穀象』はまさに角川源義氏の至言を達成したものであると思いました。
穀象に或る日母船のやうな影全身が余韻の水母透きとほる麦秋や祈るともなく膝を折る
秀逸な観察力、あざやかに切り取られた万物の感嘆、人は一所にとどまらず遠くまで深くまで届いて融通無碍と言っていいでしょう。一行詩大賞にふさわしい作品だとおもいました。
自分の俳句になかなか自信がもてないというか、輪郭がないというか、そういうものを日々のなかでいろんな方々に鑑賞していただいて、自分自身が確認していく、というかたちがありまして、さらに句集によってもう一度、とくにこういう場を得ることで自分の俳句に輪郭を与えてもらえるんだなあと今回しみじみとおもいました。鑑賞者がいないと成り立たない文芸でかもしれないと思いました。
半生はアルコール依存症との闘いでした。お酒をやめてから、自分の感情をおさえることに費やしました。喜怒哀楽をうまく表現できずそれが後悔のかたちをとって歌になってくる、負の連鎖のようなそれをしながら毎日を後退するように前に進んで行く、という歌を作っているような気がします。三千首のなかから歌集にするために歌を取捨選択したのですが、その作業をとおして歌を捨てるということが身についてきたように思えます上梓したとはいえ自分の歌もつまらなく思えてきた、この一年ですこし懐を深くして駄目だいうものをかかえていきたいそんな風に思っている時に時にこの受賞をいただきました。
俳句をはじめてまだ十五年経つか経たないかの文字通り新人です。角川主宰に書いていただいた魂をこめた跋文が私の何よりの宝でいただいた時は夜ホテルに帰って抱いて寝たものでございます。その「飛べない鶴に」また一つ新人賞というすばらしい賞をいただいて何よりの宝物になりました。ちょうど今年は先師・源義師の生誕100年にです。「河」の一員として「河」60周年にこのような賞をいただいたのもなにか特別な思いがいたします。『飛べない鶴』を刊行してちょうど一年となりますが、いろんな友人からさまざまな嬉しい言葉を貰いました。俳句を上梓した人ではなくては分からない喜びだと思います。